ちらりとみえる蒼が目に毒だ。


僕を奴の懐へと堕とし


深く深く奥底まで誘い込む。



逃れる術など、僕は持ち合わせていないんだ。




Engraved in my body and mind.
「どうも、伯爵。」 「こんにちは、伯爵。」 久方ぶりに訪れたロンドンの街角で、すれ違いざまに壮年の紳士とその娘に会釈をされた。 「…ああ。お久しぶりです。」 一瞬誰だったかと首をかしげたが、ひと月前に出席したパーティーで挨拶をした親子であることに気がついた。 娘のほうが、頬を染めながら隣を歩くセバスチャンにも会釈をする。 ― そういえば、あの時も顔を赤らめていたな。 特に関係をもつような間柄ではない。 たまたま同じパーティーの出席者というだけだ。 ただ、娘の方が何やらこいつと話したがっていたなということを思い出した。 セバスチャンもいつものようにうさんくさい笑顔で会釈を返す。 娘はそれでも嬉しかったのだろう。 先ほどよりも頬を紅潮させて歩いていった。 ― まぁ…こんなこといつものことだが。 いちいち気にしていたらきりがない。 一瞬広がったものを打ち消すように、歩を早めた。 「坊ちゃん。」 急にスピードを上げた僕を、ほんの少し足早に追いかけて奴は声をかけた。 「今の御方…お知り合いですか?」 「え?」 その言葉に驚いて振り向く。 僕の驚いた顔に、虚をつかれたのだろう。 セバスチャンも困惑したような顔をしていた。 「…あ、いや。ひと月前に挨拶をしただけの御仁だ。」 「…ああ、そうでしたか。」 「お前も話したろう?」 あの娘にも、いつものようにうさんくさい笑顔で歯の浮くような台詞を吐いていたじゃないか。 「そうでしたか?…特に貴方やお仕事に関係のない人間であれば興味がありませんので。」 「興味…?」 「ええ。基本的には。貴方に関わる方であれば完璧に記憶しておりますが。」 執事として必要ですから。 奴はそう事もなげに言った。 そんな奴の様子に何かがひっかかる。 こいつは悪魔だ。 奴らにとって基本的に人間と言えば、食物以外の何ものでもない。 人間に対してそうした認識を持つのは別段おかしなことではない。 …のに。 一瞬過ぎった思いを追い出すように頭を振る。 「坊ちゃん?」 「何でも無い。」 くるりと踵を返して、歩きだす。 忘れるな。 奴は悪魔なのだ。 基本的に人間とは違う生物。 人間に対してあんなふうなのも当たり前のことだ。 「それにしてもお前、存外鳥頭なんだな。その程度しかないのなら、僕の前の契約者すら覚えてないだろう?」 湧きあがりそうな思考や感情を消し去ろうと、嘲笑を浮かべながら嫌味を口にのせる。 なのに―。 「…お恥ずかしながら、おっしゃる通りです。」 奴は、おかしそうにそう言って笑った。 ずきりと胸が軋む。 ― 失敗した。 自ら掘った墓穴に、思わず溜息をつく。 ― 僕は馬鹿か。 たかだか下僕の言動に気分を左右されるな。 こちらからすれば、悪魔こそ劣等で醜悪な生き物。 「…ちっ…」 そう思おうとしているのに、先程見ないふりをしていた感情や思考がじわじわと侵食を始める。 口唇を噛んで、溢れそうなその感情を押しとどめた。 雑踏の中、足早に歩いていく。 もやもやと胸にわだかまるものを早く消し去りたかったのになかなか消えてくれない。 焦燥に突き動かされるように、足を動かす。 奴が後ろを歩いていてくれて助かった。 顔を見られずに済む。 ◆ ◆ ◆ 「背中、流しますよ?坊ちゃん。」 「あ…ああ。」 セバスチャンの声で我にかえる。 いつの間にか意識が在らぬ方を彷徨っていたらしい。 しまったと内心焦ったが、何でもないふうを装った。 幸い奴からも特に言葉は無い。 温かい湯が身体を流れていく。 普段なら身体から余分な力が抜けていくのだが、今日はそれができそうになかった。 全くやっかいなものだ。 考えまいと思っているものにかぎって、ふとした拍子に顔を出す。 屋敷に帰って仕事をしていても、夕食を食べていても。 油断すると、ひょっこり現れて思考を奪っていく。 身体を洗い流していく手が、まるで壊れものを扱うように触れてくる。 柔らかく髪を梳いていく指が優しい。 その仕草に、真綿で首を絞められていくようにじわじわと痛みが身体中をめぐった。 こんなこと考えたって仕方のないことだとわかっている。 それでも、どうしてもとめることができなかった。 いつの間にか、僕の全てを埋め尽くしていく。 今、そんなふうに触れていても、いつかは僕を忘れていくんだろう? あの娘のように これまでの契約者のように 僕の魂を喰らい。 僕の意識がなくなって。 お前が「セバスチャン」じゃなくなって。 お前のなかで完全に消化されて 記憶からも消え去ればいつかは―。 ― 僕がお前の中から消えるのに、どれくらいかかる? 一体どれくらいの間、僕はお前の中にとどまっていられるんだ? 濡れる身体を拭かれ、ナイティを羽織る。 「…お前は、僕をいつまで覚えているんだろうな。」 「坊ちゃん?」 奴の呼びかけも無視して、そのまま寝室に向かって歩き出した。 暗く長い廊下を、ひたすら歩く。 続く先には誰もいない。 僕一人。 闇に向かって、ただただ、独り。 ― 忘れないで。 くっと自嘲の笑みが浮かぶ。 何を考えている? 奴に食われたあとの僕に、そんな権利などない。 「セバスチャン」じゃないあいつに、命令することなどできない。 食われたあとにこいつがどうなるのか。 僕を忘れて次にどんな獲物を得るのか。 僕には知ることすらできないのだから。 そんなことわかっているのに。 苦しくて 苦しくて 情けなくて 奴の中に欠片も残らない自分が悲しくて。 忘れないで 過ごした日々を くれた言葉を 嘘にしないで。 消してしまわないで。 ああ…本当に。 我ながら呆れる。 不様で 醜悪で 滑稽で それでも―。 寝室に辿りついても顔が上げられない。 奴の顔を見ることができない。 「…セバスチャン、もう出…」 「…本気で言っているのですか?」 沈黙に耐えられなくなった僕の言葉をさえぎって、微かに怒気を纏った硬い声がした。 身体が知らずと緊張で強張った。 ふと絡められた手に、びくりと身体が反応する。 「私が貴方を忘れるって、本気で言っているのですか…?」 いつまでも顔をあげない僕を、ふわりと奴は抱き上げた。 必然的に奴に顔をのぞかれる形になる。 「…何て顔をなさっているのですか。」 ふっと、奴の顔に柔らかな苦笑が浮かんだ。 その柔らかな表情に驚いて、動けなくなる。 「…全く。忘れられるならどんなに楽か。」 愚痴を零すようにそう呟いて、ゆっくりとベッドに降ろされた。 それからいつもするように、僕の前に片膝をつく。 「坊ちゃん。契約をしませんか?」 「え?」 困惑する僕に、奴は至極真面目な顔をして向かい合った。 紅茶色の瞳が、ひどくまっすぐに貫いてくる。 「貴方がこれから先もファントムハイブ伯爵であられることを。私のただ一人の主であられることを。」 その言葉に驚いて、出すべき言葉を失った。 これから先もだって? 「まさかお前…。」 一生僕に縛られるつもりか…? 奴からの言葉を信じられずに思考が混乱している。 そのうちに、すっと左手を掬いあげられた。 「これから先もずっと、私だけを貴方の下僕に。…傍に。」 ゆっくりと、ファントムハイブ家当主の証しであるブルーダイヤの指輪がいつもの位置に戻ってくる。 「この指輪に誓いを…。」 静かに、口唇が落とされる。 儀式めいたその仕草に、かぁっと体温があがっていくのを感じた。 ― 誓いだって? 「…こんな呪われた指輪にか…?」 「クス…悪魔(わたし)らしいでしょう?」 「…フ…まったくだ…。」 奴の言葉に、思わず苦笑が漏れた。 呪われた指輪に、悪魔からの誓いのキス。 そんなもの貰うのは、僕くらいだろう。 そしてそれを心底喜んでいるのもきっと―。 「…さぁ。私にも貴方からの誓いをください。」 「僕から?」 「ええ。」 僕の手を包む奴の手が何かを握らせた。 手を開くと、小さな蒼い石がはめ込まれたピアスがひとつ。 「…貴方の瞳と同じ色の石。これを私につけてください。」 「っ…!」 「これから先も、ずっと。貴方だけのものであることの印に。」 ふっと、奴が妖艶に微笑む。 体温が先ほどよりも上昇していくのを感じた。 なんて恥ずかしい奴なんだ…! 「…お…お前馬鹿だろう?」 「貴方に関しては相当なものがあると自負しております。」 「…いつもこんな手を使っているのか?」 「信用がありませんね。すき好んで人間に縛られようなんて思うはずがないでしょう?」 貴方だけですよと囁く悪魔に、二の句が継げなくなってしまう。 「〜〜わかったからそこに座れっ」 とてつもなく恥ずかしくなって、早口でベッドに腰掛けるよう命令した。 腰をおろした奴に、膝立ちで向かい合う。 「…何もしないまま刺すのか?」 「クス…可愛らしいことを。」 「わっ…」 腰を抱かれて、ぐっと引き寄せられる。 「御心配は無用です。これくらい私にとってはたいした痛みではありませんから。」 そう言われると確かにそうだ。 相手は悪魔なのだ。 痛覚だって、人とは根本的にちがうはずだ。 けれど実際に、相手の身体に傷をつけるということに躊躇してしまった。 「それより早く、貴方の印を私に下さい…。」 「…っ…うるさい。しゃべるな馬鹿。」 「私を貴方に縛る、永遠の証しですから。早く欲しいのですよ。」 「……わかった。もうわかったから…。」 ― 本当に。   つくづく恥ずかしい男だ。 ◆ ◆ ◆ 身体を貫く熱い劣情に、芯から溶かされてしまいそうだ。 セバスチャンの細い顎からしたたり落ちる汗が、頬や身体を伝うのを感じる。 黒い髪の隙間から時折みえる蒼が目に毒だ。 「…坊ちゃん、眼を開けて下さい。」 ぎゅうっと力いっぱい眼を塞ぐ。 その様子に、セバスチャンは柔らかい苦笑を洩らした。 「…全く可愛らしいんですから…。」 大きな手が頬を包むのを感じる。 「私を見るのが恥ずかしいのですか…?」 「…っ!」 「貴方が刻んでくださった新たなる契約、永遠の証しを見るのが恥ずかしい…?」 「…やめ…っ」 奴の台詞に耐えられなくなって耳を塞いで、顔をそらそうとした。 「だめですよ。」 塞いでいた手をやんわりとはがされ、幾つもキスを落とされるのを感じる。 それでも眼を開けられそうにも無かった。 刺した瞬間の感触を 流れ出た血を想いだす。 それだけではしたなく身体が疼いた。 こんなことを考えているなんて、奴には絶対に悟られたくない。 キスの合間も、眼を開けようとしない僕に、セバスチャンがくすりと笑ったのを感じた。 「苛めたいわけではないのですが、貴方のその可愛らしい様子を見ていると加虐心が煽られてしまいますね…。」 「…っ変態ッ!」 「坊ちゃんがイケないんでしょう?そんな可愛らしいことするから…。」 「何がだ…っんっ」 身体を貫く熱さや濃厚なキスに全てを飲みこまれる。 短い呼吸しかできずに意識が朦朧とするなか、微かに眼をあけた。 思いのほか近くにあった奴の顔と蒼いピアスに驚く。 「んんっ…」 「…っ」 息を飲んだ奴の顔が、凄艶な色香を放つ。 ― 眩暈がする。 「…そんなに感じますか?貴方の印が私にあることが。」 「んっ…あッ」 「中、すごくうねっていますよ。この私が持っていかれそうだ…」 「も、やめ…セバスチャ…」 「…嗚呼…イイですよ。貴方の中も、私を呼ぶ貴方の声も…」 恍惚と囁く奴の声が、耳に直接注ぎ込まれる。 恥ずかしくて、熱くて、死んでしまいそうだ。 「…貴方は私のものだ。貴方以外何もいらない。」 「っあッ…やっ…アッ…!」 「そう思っていること、わかっていますか?」 突然奥まで穿たれ、身体がはねる。 早くなる律動に全てを飲みこまれるように感じた。 「…昼間から一人で悩んでいたでしょう?」 「っ…ぅん…あ、やっ…セバ…」 「こんなにまで貴方に堕ちているというのに貴方を喰らうなどできるはずがないでしょう?ましてや忘れるなど…。」 穿たれる振動で自然と逃げを打つ身体を、奴にしっかりと抱きしめられる。 腰の奥からせり上がってくる焦燥感にも似た快感が、絶頂が近いことを知らせた。 「…悪魔(わたし)をここまで貶めて下さった責任、しっかりととっていただきますよ?」 奴の瞳に、紅く獰猛な光が宿る。 高潔そうに光るピアスの蒼とのギャップに意識がグラリと揺らいだ。 「アアッ…!」 身体の最奥に、とてつもなく熱いものを感じる。 朦朧とする意識に身体の感覚が消えるようで、必死に奴の背中にしがみついた。 耳元で聞こえる奴の余裕のない息使いが、高みへと導いていく。 「…あ、あ…セバスチャ…ッツ!」 「…っ…坊ちゃん…」 互いにほぼ同時に、熱を放出する。 身体の中に注がれる熱や身体を包む熱に、溶けて一つに混ざっていくような気がした。 「…永遠を誓いましょう。私の全てを賭けて。」 「…セバスチャン…」 柔らかなキスが何度も下りてくる。 「生も…死すら分かちましょう。ずっと…貴方の傍に。。」 真摯な響きをもつ言葉に、胸が苦しくなる。 奴の身体に回した腕に、思いのまま力を込めた。 「…ああ。」 誓おう。 この身体も 魂も 心も全て、お前に捧ぐことを。 永遠に、傍に。 死を二人で分かつまで。