屋敷の執務室から、まだうら若き少年の、
 動転した声が聞こえる。


「ちょっと待て・・・
 だから・・どうして」


 セバスチャンは、
 その気品のある細い眉を寄せながら、
 大きく溜息をついた。

 執務室に入る午後の日差しのせいで、
 いつもより
 その紅茶色の瞳がさらに明るい。

 黒い燕尾服を整然と身につけ、
 優雅な動作で、セバスチャンは彼の主人に
 アフタヌーンティーを、
 差し出したばかりだった。

 彼の主シエルは、
 伯爵家の肩書きを捨てたとはいえ、
 身についた高貴な家柄の出にふさわしい、
 威厳と品位を持っている、
 まだ十台半ばもいかない少年だが、
 今日は彼にしては珍しく、
 日ごろの冷静さを失っていた。


「あの−−−話聞いてました?」

「聞いてたから、
 理由を尋ねているんじゃないかっ!」


 傍から見てもおたおたするシエルは、
 執務室の椅子から転げ落ちそうになった、
 自分の体勢を元に戻そうとしている。

 だがその尋ねる口調は、
 自分の倍以上の身長のセバスチャンに対し
 目下の者に問いただすような、
 極めて横柄な口調である。

 そのはかなげに美しく少年らしい外見とは
 まるで似つかわしくないが、
 それはいつもの彼らしい高慢さであった。


「ですから、結婚の理由は−−」

「いやいや・・ちょっと待て。
 もう一度話を整理するぞ。

 誰が誰と結婚するって?」


 額に手を当てて、
 その小さな顔に影を作りながら、
 シエルは、
 セバスチャンが同じ英語という言語
 を喋っているのかどうか、考えていた。


「私が」

「うん」

「ぼっちゃんと」


 執務室の机の上に開かれていた、
 書簡の山がズサッと落ちた。


「・・・・」

「それで理由ですが」

「まぁいい、お前のことだから、
 それなりの理由があるんだろう。
 聞いてやる。

 なんかの偽装なんだろう?
 どんな計画だ?
 目的は何だ?」


 心を落ち着かせようと、
 シエルは、セバスチャンが持ってきた
 紅茶に手をつけた。
 
 そして、黒い燕尾服に身を包んだ、
 長身細身のセバスチャンは、
 シエルの執務机の真正面に立ちつつ、
 一度軽く咳払いをして言った。


「そろそろ後継者を、と」

 ぶっ!とシエルは、
 一気に口に含まれていた紅茶を噴きだす。


「ああ、何やってらっしゃるんですか−−
 いま、拭いて差し上げます」



 セバスチャンは、すぐにシエルの側に寄り
 胸元からハンカチを出して、
 思いっきり紅茶を浴びてしまった、
 シエルの顔や服を拭き始めた。


「お召し替えいたしましょう。
 シミになってしまいます」

「服のことなんか、
 この際どーでもいいっ!」

 動転するシエルを見つめながら、
 困ったような顔をして
 セバスチャンが尋ねる。


「愛の囁きや愛の告白からの方が、
 良かったでしょうか?」

「いや、普通に考えて、そうだろう・・」

「ええ?? 
 私がぼっちゃんに、愛の告白ですか??」

「自分で提案したんだろうが!」

「いえ、私は一般論として−−」

「じゃ、何か?僕は愛のない結婚だけど、
 後継者作りのためにお前と結婚しろと?」

「ええ、そうなりますね」

 しゃあしゃあと答えるセバスチャン。


「お前、殺す」

「なんか、
 外国人みたいな言い方になってますよ」

「ってゆうか、
 そもそも何の後継者なんだ!?

 僕はファントムハイブ家を捨てて、
 お前とおなじ、ただの悪魔だぞ?
 何を後継するんだ?」

「いえ、ぼっちゃんと私の子なら−−」

「さぞかし可愛いとでも?」

「いえ、強い子ができそうですので」


 驚きのあまり、
 しばらく口をぱくぱくと魚のように動かし
 シエルは青碧眼の大きな瞳をさらに大きく
 見開きながら、つぶやいた。


「・・・お前にそういう思考があるとは、
 正直びっくりだ・・」

「そうですか?」


 何だか急にどっと疲れを感じて、シエルは
 執務室の椅子にどかっと倒れこんだ。

 セバスチャンは優しく、
 椅子に沈み込むシエルの髪をなで、
 顎を持ち上げて、唇をそっと重ねる。

 セバスチャンの漆黒の髪が、
 シエルの額にくすぐるようにあたる。

 舌を絡めあい、吸いあっているうちに、
 シエルが高まりを覚え始めると、
 セバスチャンは優しく耳元で囁いた。


「こうした行為も、子供をつくるって
 目標ができますよ」

「??
 ・・・・・
 悪魔って、キスで子供ができるのか?」

「まさか。そんな子供だましな−−
 
 ちゃんとそれなりの行為をしないと、
 出来ませんよ」


 セバスチャンの言葉を聞いて、
 思わずシエルの顔に血が上っていく。


「それなりって・・」

「ぼっちゃんが想像して、期待している、
 ソレですよ」

「想像はしたが、期待はしてないぞ、
 悪いがなっ!」


 手から白手袋をすっと抜き、
 ふくれっ面をするシエルの頬を、
 そのなだらかな曲線に沿って優しく、
 セバスチャンは撫でる。

 しかしシエルは、
 その手をぱしんと叩いて、
 ぷいっとそっぽを向いてしまった。

 クスっというセバスチャンの、
 忍んだ笑いが聞こえてきて、
 シエルは、彼の執事を再び横目で睨む。


「でも、ぼっちゃんは我が主ですので、
 やはり手を出す前に、
 きちんと結婚すべきだと考えまして−−」

「お前の主従観は・・・
 はっきり言って狂ってるぞ?」

「ぼっちゃん程では」

「僕の何が?」

「いえいえ、主の悪口は申せません」


 セバスチャンが長く黒い睫毛を伏せ、
 胸に手を置いて、神妙そうに答えた。


「もう言ったも同じだろうっ!」

「とにかく結婚しましょう」

 セバスチャンは、そう言うと、
 両手でシエルの頬を包み込み、
 自分の正面に顔を向けさせ、
 シエルの瞳をじっと見つめる。

 シエルは、その紅茶色の瞳に、
 思わず吸い込まれそうになる。
 居心地悪そうに、
 シエルは視線をそらした。


「いや、この流れでプロポーズは、
 ないだろう。

 しかもこの急ぎのやっつけ感は、
 一体何なんだ」


 シエルは顔を包み込む両手を再度はねのけ
 不満そうに尋ねた。
 セバスチャンは腕を、流れるような動作で
 優美に、空に広げ放ち、
 彼の身振り大きな動作に口の中で悪態をつくシエルをよそに、声を張って言う。


「そんなことはありませんよ。
 結婚した後には、広大な計画があります」

「ほう、どんな?」

「私たちの子供を鍛えあげて−−」


 嫌な予感が、
 シエルの心を占めてきつつ、あった。


「世界一の悪魔にするとか、
 人間世界を滅ぼすとか、

 そういう妙な野望じゃないだろうな?」

「いいえ−−そんな」


 セバスチャンの、
 言おうか言うまいか考えている様子に、
 シエルは苛立ち、先を促す。


「言ってしまえ。何だお前の計画とは?」


 まさか、最強悪魔一家とか、
 そんなことじゃないだろうな・・


「私の中に存在する悪魔の愛を、
 あらゆる手段を用いて注ぎ込み、
 悪魔的育て方で、

 悪魔の貴族の後継者を−−
 
 決め台詞は
 あくまで貴族ですから、でしょうね」

「なんかただのスノッブな、
 嫌なヤツって感じがするだけだが・・

 大体爵位を捨てたんだぞ、僕は」

「私が持っている爵位の一つの、
 公爵を継いでもらいましょう」


 ・・その地味に、自分の方が、
 爵位が上だったと言わんばかりの、
 得意気な顔がむかつく・・


「でも父親は母親の執事で?歪むぞ、子供」

「すでに母親になる決意ができてるとは、
 さすが我が主、元女王の番犬」

「そこに元ってつけるな、肩書きじゃないっ
 しかもメス犬の様に言うな!」


 一際大きなため息をついて、
 額に手をあて、
 瞳をとじて呆れたように呟くシエル。


「そんなことのために、
 子供を育てる意味がわからない・・」

「やってみればわかります」

「いや、あえて言えば、わかりたくないし、
 やりたくもない。
 
 絶対お前と子供だけは作らないからな!

 まだ子供は無しで、
 愛のない結婚だけのほうが数百倍ましだ」

「では妥協して、それでも良いでしょう」


 うんざりした顔しながら、
 軽くめまいと頭痛を感じて、
 シエルは、頭を抱え込む。


「いや、良くない、それも良くない全然」

「愛のある結婚がご所望なのですね?
 では、よく考えてまいります」

「・・・・」

 ・・なんで、お前が考えてくるんだ!・・




 永遠の暇をもてあます、
 怠惰な悪魔の日常の終わりまであと六日。

************************

「それは、何だ??」


 エントランスホールで困惑する、
 シエルの前で、黒いローブに黒いおかしな形の帽子をかぶった、
 葬儀屋がへらへらと笑っている。


「これかい?
 ささやかながら、小生が、
 二人のために用意した...

 結婚記念のプレゼントさ〜

 夫婦棺、そっくり同じデザインだけど、
 この世に二つしかないんだよ?

 気に入ってもらえればいいんだけどねぇ」

 
 大理石の見事な薔薇の精巧な、
 レリーフが施された大きな棺が二つ、
 エントランスホールの中央を陣取っていて
 その上にちょこんと銀色の長い髪をした、
 葬儀屋が座っている。


「ほう−−早速サンカリストのカタコンベで
 研究された結果が出ていますね。
 
 良い作品です」


 セバスチャンはしげしげと棺の細部を
 触って、観察している。


「うん...小生の自信作さ、
 気に入ってもらえたようだねぇ」

「気に入るかっ!!」

「順当に、金箔の鶴の絵柄付き大皿とか、
 の方がよかったかい?」

「それもいらんっ」

「では小生オリジナルの
 先代伯爵の捏造シネマティックレコード。

 小生との出会いから別離までってのは..」

「・・・帰れ――っ」


 ぜいぜいと息を切らすシエルの小さな肩を
 やさしくそっと背後から抱いて、
 セバスチャンが耳元に囁く。

「そんなに興奮なされずとも。
 葬儀屋さんが、
 こんなに祝福して下さってる事ですし−」

「全然嬉しくないし、
 義理立てするつもりもないっ!

 この話は昨日終わったはずだろう?
 おい! 耳がくすぐったいっ!」

「ぼっちゃん」


 セバスチャンは、
 シエルの小さな身体をくるりと回して、
 自分の方を向かせ、
 その大きな青碧眼をじっと見つめた。


「大体、この話は、
 ぼっちゃんからでしょう?」

「・・・は??」

「ぼっちゃんが私に昔プロポーズしたのに、
 そのまま結局うやむやに、
 時間だけが経ってしまって−−」

「???
 ちょっと待て。

 僕が、
 一体、
 いつ、どこで、
 お前に、プロポーズしたって??」


 言葉一句一句をかみ締めるように言って、
 シエルはセバスチャンに問いただす。


「いつまでも僕の傍を離れるな、絶対に!
 って、
 仰ったじゃありませんか−−

 葬儀屋さんと別れた直後に、お墓で」

「ヒヒヒ...墓つながりだねぇ...」
 

 背後で葬儀屋が三角に口を広げて笑いつつ
 バリバリと変な形のクッキーを食べている


「うん、その台詞は確かに、
 言った覚えはある。

 ・・・が、
 決して、決して結婚なぞ、
 僕は念頭に置いて言ってないぞ!」

「本当ですか?
 普通その台詞は、求婚で使うものです。
 あれは確か、
 マダムレッドの葬式の直後ですよ。
 貴方が見殺しにした−−」


 顎に手を当て、あたかも思い出すような素振りを見せながら、セバスチャンが言う。


「確かも何も、
 お前、はっきり覚えてるじゃないかっ!

 しかも最後の言葉で、
 余計な過去を引きずり出して、
 僕の心をえぐって・・・」


 シエルの瞳が今にも、
 紅く燃え上がりそうになるのを、
 セバスチャンは、
 妖艶な微笑を浮かべて見ている。


「これしきの言葉遊びで、
 傷つくような脆弱な魂の持ち主なのですね
 我が主は」

「言葉遊びが嫌いなだけだ。

 それに別に僕は、見殺しにしたことさえ、
 恥じてなどいない。
 それが肉親でも。
 当然のことを、
 当たり前のようにしただけの話だ」

「ええ、そうでしょうね」

「必要と有らば、お前のことだって、
 僕は簡単に切り捨てることができる。

 知っているだろう?
 お前を見殺しにしたって、
 なんていう事はない」


 シエルは、彼の幼いあどけない顔には、
 不釣り合いな挑発的な態度で、
 セバスチャンを睨みつける。


「そうですか」


 深く大きな息を吐いて、
 セバスチャンは紅茶色の瞳を翳らせ、
 誰をも戦慄させるほどの美麗な顔立ちに、
 沈鬱な表情を浮かべた。
 

「では試してみましょう」

「何を?」

「貴方が私を本当に見殺しにして、
 それでなんともなく、
 平然としていられるか、をです」


 いきなり何を言い出すんだと、
 言いたげな表情で、
 しばらくセバスチャンを見つめ、
 シエルは突然笑い始めた。


「お前を見殺しにするって?
 はっ!
 また、なんの悪い冗談を始める気だ?
 悪魔がそう易々と、
 殺されることなどあるまいに」

「ええ、通常のやり方では−−
 致命傷にすら、なりはしません。

 ですが−−
 永劫の闇をまといしと謡われた、
 この−−レーヴァテインでは」


 セバスチャンはそう言って、
 ぬるっと緑色の大蛇のような、
 禍々しい輝きを放つ大剣を、
 天に向けて掲げた。

「その剣は・・・
 死の島に深く沈んだと言ってたじゃないか
 レプリカか?」

「いえ、紛うこと無き本物ですよ
 試したいですか?」


 切っ先をシエルに向けて、
 セバスチャンが壮絶に微笑む。
 しばらく見つめ合った後で、
 シエルが唾を飲み込み、
 低い声で命じる。


「ああ、勿論だ。
 この無意味な悪魔の生を僕から奪え!

 わかってるだろう?
 お前のなすべきことは。

 貫け、僕をっ!
 僕から悪魔の生を?ぎ取れ、
 呪わしき生に終止符を打て。

 命令だ。セバスチャン」

「残念ですが、聞けません」

「なんだとっ?
 ここで、
 お前に許されてる言葉はただ一つ」

「今は−−聞けないというだけです。

 ご心配なさらずとも、
 必ず貴方の命は果たしますよ、私は。

 その時がきたら」

「僕の復讐は、
 すでに人間であるときに果たされた。
 お前との第一の契約は既に完結している。

 そして、第二の契約は、
 お前が永遠に、僕の命令を聞く、
 執事になるということだっただろう?

 約束の時は今だ。
 さぁ、僕の命令を果たせ、いますぐ」

 シエルは大剣の切っ先に向かって、
 胸を差し出し自らの身体を貫こうとするが
 セバスチャンは剣を素早く動かし、
 シエルの身体から遠ざける。


「何故!?」

「まだ、試してないでしょう?
 貴方が私を見殺しにして平気かどうか。

 それとも貴方は、
 自分自身が言ったことすら、
 ほんの何秒間後には責任持てないと?」

「いや、良いだろう。
 お前が先に逝きたいというなら、
 逝かせてやる。

 ただしその後、僕が逝っても、
 文句は言うなよ」

「それは勿論、言いませんよ。
 言いたくてもいえないでしょうに。

 ですが、むしろ光栄です。
 私の後を追っていただくとは」


 セバスチャンは妖しく微笑んで、
 大剣を大きく振りかざし、
 その切っ先を自分の胸元に当てた。

「それでは、お先に失礼いたします」


 頭をこくりと軽く下げ、
 会釈するように挨拶したすぐ後に、
 セバスチャンは一気に自分の胸を貫いた。

 白いシャツに紅い血が広がり、
 その身体はゆっくりと膝から、
 地に崩れ落ちていく。
 シエルに向けられた眼も次第に閉じていく
 口元だけに微笑みを残して。


「まさか・・嘘だろう?」

 
 エントランスホールに倒れた、
 セバスチャンの回りに徐々に、
 血溜まりが広がり、
 シエルは腰が砕けたような足取りで、
 セバスチャンに近づいた。


「ホントは、
 止めて欲しかったんじゃないのかなぁ...
 伯爵に」
 

 葬儀屋が寂しそうに笑いながら、
 前髪の奥の緑色の眼を光らせる。


「僕が、止めるだと?馬鹿な・・」


 シエルの脳裏に、
 外套を優しく肩にかけてくれた時の、
 セバスチャンの優しい微笑が浮かぶ。

 燭台を片手に、
 寝台の横で寝付くまで立っていた時の微笑
 また、馬車で手を差し伸べ、
 降りる介助をした時の微笑。

 単なる従者としてだけではなく、
 彼と共に暮らした日々。

 数々の凄惨な事件を共にこなし、
 死線を共にくぐり抜けてきた戦友として。

 また幾多となく、
 囚われた自分の解放者として。

 そして、
 何よりセバスチャンとの、
 甘美な口吻の光景が広がる。

 美しく淫靡で官能的な彼の紅茶色の瞳に、
 絶えず見つめられながら、
 時に憎み、時に罵り、時に打ち据え、
 過ごした日々。


「こういうのは、えてして、
 失ってから気づくもんなんだよねぇ...」
 

 葬儀屋が足をぶらぶら揺らしながら、
 誰にいうともなく、つぶやいている。


「なんで、
 ヤツに悪魔の生を終える理由がある?」


 葬儀屋は棺の上から立ち上がって、
 シエルに近づき、
 その前髪を黒く長い爪で掻き分け、
 契約印の刻まれた瞳を見つめながら、
 言う。


「自分と同じ理由で...
 ...とは君は考えないのかい?」

「悪魔でいることを、
 セバスチャンが厭っていたと?

 それこそ馬鹿な・・ありえない。

 アイツはいつだって楽しんでいたはずだ。
 昨日もくだらない冗談をしかけてきて」

「ふぅん、見かけが全てとは限らないよ、
 伯爵。

 たとえ君にどんな表情をして、
 君にどう見えてもね。

 それは執事君にしか、分からない事さ...

 そして君は今、
 大変ショックを受けているようだねぇ」

「当たり前だ!こんな・・
 こんな事は予想だにしてなかった。

 アレが僕の傍を離れるなんて」

「そうかい?
 君がわざわざ彼を見殺しにしても、
 平気だなんて、強がりを言って、
 迎えた結果じゃないか...

 それでも心の準備が出来てなかったと?」


 ・・そうだ、それも僕が言った・・
 だからといって、まさか本当に。


「それに君は、彼の真剣なプロポーズを、
 断ったじゃないか。それだって、
 人によっては、十分自死に値するよ。
 まぁ、悪魔だけど...」

「そこまで本気で?

 まさか・・冗談だったんだろう?
 いつものアイツの悪質な」

「冗談でしか、
 愛を語れないタイプもいるからねぇ...」

「愛?ヤツにそんなものあったものか」

「伯爵も執事君も意地っ張りだからねぇ...

 いいよ、愛って言わなくても、
 憎しみとでも、執着とでも
 魂のやりとりとでも、契約とでも、
 何とでも名前をつけるがいいさ...

 小生にとっては、
 畢竟、どれも同じ物に見えるけどね」


 シエルはセバスチャンの身体の元に立ち、
 血溜まりの中に両膝をついて、
 美しい眼を閉じて逝った、
 セバスチャンの生気のない顔を見つめた。
 
 ・・漆黒の髪を触る、
 よく眼に入って邪魔だった髪。
 でもそれが額に触れるとき、
 僕はいつも・・


 大きな剣の柄に手を向けると、
 葬儀屋が話しかけてくる。


「後を追うのかい?...」

「僕は、ぼくのすべきことをするだけだ」

「それは無理だと思うよ...

 執事君...
 一体いつまで続ける気だい?この芝居」


 セバスチャンはくっくっと笑いながら、
 剣を引き抜いて、床に転がした。

 呆気にとられているシエルを横に、
 セバスチャンは葬儀屋に尋ねる。


「よく分かりましたね」

「ああ、伯爵の眼に、
 きらきら契約印が輝いてたからねぇ...

 小生の前髪が長くてよかったねぇ...
 じゃなければ、
 小生の瞳に映って伯爵にもバレてたよ」

「応援ありがとうございました」


 セバスチャンは上体を起こし、
 葬儀屋に向かって微笑む。

 その顔に一発強烈な平手打ちをして、
 シエルはさらに、セバスチャンを押し倒し
 その身体に馬乗りになって、
 殴りつけようとするが、
 セバスチャンは、
 そのシエルの華奢な両手首を掴んで、
 無理やり口吻した。

 シエルは、
 セバスチャンの唇を思いっきり噛んで、
 身体を離し、怒り続ける。


「お前っ!
 僕を騙したな・・レーヴァテインなどと」

「私は嘘は申しませんよ。

 これは正真正銘のレーヴァテイン。
 私が死の島の底から、この間回収した−−
 
 実際苦労しましたよ。あまりにも、
 深いところに沈んでましたので」

「では、なぜ死なない?」

「ぼっちゃん、
 私は魔剣とは言いませんでしたよ。

 これはレーヴァテインという名の剣、
 ですがもうただの剣です。

 わたしがクロードさんを刺して以降は。

 魔剣だって悪魔のようなものです。
 一人の悪魔を殺したらその生を終えますよ

 たかだか一本の魔剣で、
 無数に悪魔を殺せるなら、
 悪魔など早々に駆逐されてしまいます」

「それが分かってて、何故拾ってきた?」

「ふふ、それはお分かりでしょう?」


 セバスチャンは、
 シエルの両手首をさらにきつく掴み、
 抵抗するシエルの華奢な身体を引き寄せる


「こんなことをして遊ぶためか?
 なんて性質の悪い、悪趣味な遊びだ・・」

「お褒めいただき、光栄です。
 楽しめましたでしょう?

 私は貴方が動転する様が見れて、
 とても楽しかったですよ」

「お前は馬鹿だろ。
そんな事のために、こんな剣拾ってきて」

「では貴方は嘘つきですね。
 平気だ、などと言って。
 
 いつも私がそばにいるのが、
 貴方にとって、当たり前に、
 なってしまっているというのに。

 今度から貴方のいう事は、
 全て逆にとることにしましょうか?」

「ふん、好きにしろ」

「それでは、私の血の香りで、
 おなかが空かれましたか?」

「いや」


 セバスチャンはシエルと、
 体勢を入れ替えて、床に押し倒し、
 唇の間に舌を割り込ませて、絡ませた。

 血溜まりの中に寝ころがされて、
 シエルの服も紅く染まっていく。
 セバスチャンの切れた唇から、
 流れる血の味にシエルの虹彩は細くなり、
 瞳は紅く煌いている。

 悪魔の血の芳香にたまらなくなり、
 シエルは貪るように、
 セバスチャンの口腔内に舌を入れ、
 余すところなく嘗め尽くした。


「やはり、嘘つきでいらっしゃる。

 服が汚れてしまいましたね。
 あとで、お召し替え致しましょう」

「自分で汚しておいて、何をいまさら」


 ようやくシエルの片手首を解放して、
 頬に手を添えて、
 セバスチャンは優しく囁く。


「私と結婚してくれませんか?」


 少しの間、目の前の悪魔の、
 紅茶色の何を考えているかわからない瞳を
 見つめながら考えて、シエルは答えた。


「ああ」

「ありがとうございます」

「・・・・お前逆に取るって」


 シエルの抗議をよそに葬儀屋が割り込む。


「よかったねぇ〜〜...
 執事君、すんなりOKがもらえて」

「すんなりって・・

 今までのやりとりと、この血の量を見て、
 どこがすんなりだと?」

「まぁ...
 君らにとっては、上出来な部類さ」


 葬儀屋は上機嫌な声を出して、
 フラフラ揺れながら笑っている。


「神父の代わりに葬儀屋さんということで、
 私たちには、それがお似合いですね。

 では誓いのキスを−−」

「調子にのるなっ!」

 シエルは、自由になった片手で、
 セバスチャンの腕や胸を、
 思いっきり叩いている。
 

「ああ、その前に証人が必要でしたね。
 もうすぐいらっしゃいますよ、きっと」

「は?この上誰か呼んだというのか?」


 シエルは叩き続けた手の動きを止め、
 セバスチャンに怪訝そうな顔で尋ねる。


「呼んでませんが、勝手に来ます、きっと」


 というが早いか、エントランスホールの
 巨大なシャンデリアが揺れ、
 その上に真っ赤なコートが翻る。

 チェーンソーの音と共に、
 すっと床に降り立ち、
 紅く腰まで届く長い髪をかきあげて、
 グレルが叫ぶ。


「バージンロードは鮮血の赤!ってぇ〜〜〜

 なにョ〜・・またガキとじゃれあって!
 しかも血だまりの中、
 何てこと〜そこはアタシの位置よ」

「先輩マズイっすよ。
 セバスちゃんと、今日は
 遊んでる場合じゃないですって」

 すぐに玄関の扉が、
 芝刈り機状のデスサイズによって、
 大きな音を立てて壊され、
 ロナルドがグレルを呼びにきた。


「だって毎日、アタシの仕事始めには、
 セバスちゃんの顔を拝まないと、
 ヤル気でないんだもン」

「すぐ、
 ウィル先輩に見つかっちゃうんすから、
 こーゆー事してっと」

 しかし時既におそく、
 逆光を背にして怒りのオーラを放ちながら
 高枝切バサミ状のデスサイズを片手に、
 黒いスーツを一分の乱れなく着た、
 死神がやってくる。

 ウィルは、角ばった眼鏡の奥から、
 冷酷な眼を向け、デスサイズを伸ばし、
 グレルのコートの襟を掴まえ、
 宙づりにする。


「グレル・サトクリフ!
 ロナルド・ノックス!ここはアナタ方の、
 仕事場ではないでしょう」


 そして、ウィルは血だまりの中、
 シエルを抱きかかえ、
 立ち上がるセバスチャンを、
 眼鏡ごしに、不快そうに見つめた。

 葬儀屋がウィルに話しかける。


「いや〜、
 丁度良いところにきてくれたねぇ...
 ちょっと一分だけでいいから、
 そこに居てもらえるかい?

 すぐ終わるから」


 ウィルは葬儀屋に気が付き、
 深くお辞儀をして言う。


「気がつかず、すみませんでした。
 貴方がお出でになっていたとは。

 すっかりそこの、
 不快な害獣に気をとられまして」

「今日は、
 伯爵と執事君のめでたい結婚式なのさ。
 さぁ早く...」


 葬儀屋はセバスチャンに促すように、
 合図を送った。


「それではぼっちゃん、
 誓いのキスをいたしましょう」

「なんで・・そうなるんだ」

「結婚式ィィィ〜〜??」
 
 
 グレルが絶叫している。


「それは吉報ですね。

 これでこの不出来な同僚も、
 この害獣を、
 追っかけなくて済むようになるでしょう。

 結婚でも離婚でも、何でもしてください。
 ですが一分以内に」

「ウィル〜それって・・
 アタシにアナタだけを見つめろって、
 暗に言ってるワケ?」

「暗にも明にも言ってません」


 ウィルはデスサイズで眼鏡を上げて、
 奥からグレルを睨みつけた。
 セバスチャンは、
 抱きかかえたシエルの顔に、
 覆いかぶさるように自分の顔を寄せている


「さぁ、ぼっちゃん」

「やめろ〜!
 これは夢喰らいの悪魔が見せている、
 悪夢の一つなのか?」

「いえ、
 これは私と貴方で紡ぎ出している、
 現実の一環です。

 ‐‐そんなに私と結婚するのは、
 お嫌ですか?」


 セバスチャンは美しいその顔を、
 悲嘆するかのように、少し歪めて尋ねる。


 ・・なんで、
 そう悲しそうな顔をするんだ・・


「愛の囁きは?
 お得意の口説き文句はどこいった?

 お前は悪魔。
 誘惑するのはお手の物だろう?

 僕をその気にさせればいい、
 そんなに僕と結婚したいのなら」


 セバスチャンは益々その瞳の翳を濃くして
 悲しみに沈んだ顔をして、
 重々しく語り始めた。


「だからこそ、
 そんなことをしたくないのです。

 貴方にだけは−−」

 
 しばらく二人の沈黙が続いた後、
 シエルはまた、ぷぃっと顔を背けた


「ふんっ」


 ・・それが口説き文句って言うんだ、
 セバスチャン・・


 それ以上何もいわずに、
 セバスチャンが抱きかかえたシエルの唇に
 そっと自分の唇を重ね、
 二人の口づけが終わるまで、
 シエルは彼の腕を、
 ぎゅっと強く握り締めていた。

 永遠の暇をもてあます、
 怠惰な悪魔の日常の終わりまであと五日。

******************************

「で、こちらとこちらと、
 −−こちらになります」

 空気の入れ替えのため開け放たれた窓から
 朝の小鳥のさえずりが聞こえてくる。
 
 執務室の机の上には、セバスチャンが持ってきたパンフレットが並べられている。


「何だ?これは」


 パンフレットを手に取り、シエルは、
 一つ一つ不可思議そうな顔をして眺める。


「デンマーク王国アイスランド島観光?
 公爵家のつきあいか何かか?」

「いえ、そちらには、アルマンナギャオと
 呼ばれる大地溝帯がありますので。

 余談ですが、アルマンナギャオとは、
 全人類の割れ目という意味なんですよ」


 優しく微笑みながら、セバスチャンが、
 花瓶の花を生け替えている。


「こっちはエチオピア帝国観光?」

「そちらには大アフリカ地溝帯が−−

 年間数ミリずつ、
 大地の裂け目が広がっています」

「こっちは、大日本帝国観光・・・」

「ええ、言わずとしれた、
 フォッサマグナという大地溝帯が−−」


 シエルは、真剣な表情で、
 しばらくパンフレットを見つめると、
 セバスチャンに眼をやり、話しかけた。


「わかったぞ・・・

 これらのどこかの地底の奥深くに、
 魔剣があるというわけだな」

「あの−−話聞いてました?」

「いや全然」


 はーっと大きなため息をついて、
 セバスチャンが頭を手で軽く抱えている。


「いわゆるハネムーンです。ぼっちゃん。

 新婚旅行どこ行きましょうか?
 という話をしていたのですが−−」

「・・・・
 ちょっとまて、まためまいが・・
 なんで、大地溝帯・・いやそれより前に

 昨日のどたばたで、既にお前と、
 結婚したことになってるのか??」

「ええ、それは勿論」


 にこやかに微笑するセバスチャンを見て、
 今度はシエルが、
 大きなため息をつく番だった。


「行かないからな。どこにも」


 低い声でぞんざいに答えるシエルに、
 セバスチャンは首を傾げて尋ねる。


「どうしてです?これらの場所では、
 好みに合いませんでしたか?」

「当たり前だろっ。
 どこのどいつが、
 大地溝帯巡りにつきあって喜ぶんだ。

 社会科見学か!
 お前は地層ファンかっ!

 一人でグランドキャニオンにでも行って、
 一日中、いや永遠に眺めてていいぞ」

「もう、それは見飽きましたので−−」

「見てたんかいっ・・・」


 一度がっくりうな垂れたシエルは、
 しばらくして顔を上げ、
 正面を見据えて毅然と言った。


「とにかく僕は、
 お前とのハネムーンなんぞに、
 費やす時間はない。

 そんな暇があったら、
 魔剣を一刻も早く探すさ。
 自らの悪魔の生を断ち切るために」

「ああ、魔剣もあるかもしれませんよ。
 特にアイスランドあたりなんかは−−」

「うぅなんて適当な意見を・・
 嘘だろう。自分が、
 そこに行きたいだけじゃないのか??」

「もう何度も言ったでしょう。
 私は嘘はつきません。可能性は、
 ゼロではないと申し上げたまでです」

「そりゃどこでもゼロではないだろう
 
 大体、新婚旅行っていうのは、
 もっとこう、夢希望のあふれる場所に、
 行くのが普通なんじゃないのか?」

「地層はロマンです。

 見るものの心を癒し、地に繋ぎ止め、
 その大地の営みの歴史を見つめながら、
 私たちの性の営みの歴史を積み上げ−−」

「一発殴っていいか?」

「そうきますか−−
 それではお相手せねばなりませんね」

「いやいや、そこでなぜフルーレを渡す?」


 セバスチャンに、
 フェンシング用の剣を投げ渡され、
 受け止めながらシエルが尋ねた。


「いえ、最初が肝心といいますから」

「最初?」

「亭主関白を勝ち取るために−−」


 すかさずセバスチャンが、シエルの胸に向かってフルーレを繰り出した。
 あわてて防御に回るシエルに、
 攻勢をかけるセバスチャン。

「ずるいぞ、不意打ちして」

「では仕切り直して、貴方からどうぞ」

 セバスチャンは動きを止め、
 シエルから離れて、距離を取り直し、
 フル−レを一度天にかざして、
 態勢を整えた。

 シエルは思いっきり息を吐いて、
 前に大きく一歩踏み出し、
 セバスチャンの胸に向かって、
 剣を突き出す。

 すっと軽く横に避けたセバスチャンは、
 華麗にフルーレを扱い、
 すかさずシエルの耳元の髪を掠めた。
 尚も剣をお互い合わせて、
 シエルの息は次第に上がってきた。


「はぁはぁ・・
 お前、大の大人が子供相手に・・・
 少しは手加減ってものを知らんのかっ」

「十分してあげてるつもりですが。
 わざと負けてあげろとでも?

 これは私にとっても大事な一戦ですので、
 勝敗は譲れませんね」

 
 対してセバスチャンは息一つ荒らげず、
 美しい顔に挑戦的な微笑を浮かべて、
 シエルに答える。

 しばらく剣のぶつかり合う音が響いた後で
 シエルの額ぎりぎりの所で刃をとめて、
 セバスチャンが言う。

「ぼっちゃん、貴方の負けです。

 しばらく練習を怠ってらっしゃるので、
 腕が落ちましたね」

「刺したければ刺せ」


 シエルが瞼を閉じて、不機嫌そうに言うと
 微笑しながら漆黒の執事が近寄り、
 シエルを抱きしめた。


「負けたのに、そうやって強がりを言う・・
 本当に子供ですね」


 セバスチャンは屈みこみ、
 シエルの顎を軽くつかんで口吻する。

 二人の長い抱擁のあと、
 セバスチャンは唇を離し、
 優しい口調で言った。


「アイスランドで、オーロラを見ながら、
 こうして貴方と一時を過ごしたいのです
 貴方を抱きながら−−」


 セバスチャンが部屋を出た後で、
 シエルは床に投げ捨てたパンフレットを、
 もう一度手に取り見直していた。

 永遠の暇をもてあます、
 怠惰な悪魔の日常の終わりまであと四日。


************************

「ああ、あの辺りは、
 ぼっちゃんの瞳の色ですね」

「そうか?」


 シエルはレイクホルトの露天の温泉につかりながら、
 セバスチャンの片膝に頭を乗せて、
 セバスチャンの指差す方向を見上げる。

「肩までおつかりにならないと、
 身体が冷えてしまいますよ」

「冷えた所で、
 風邪をひくわけじゃない・・」

「そうですが−−
 せっかく、いらしたのですから、
 ゆっくりお浸かりになれば宜しいのに」


 星が降るほどの晴天の空には、
 天から降るカーテンのように、
 オーロラが刻一刻と形を変え、色を変えて
 光の饗宴を見せている。


「あ、今ぼっちゃんが悪魔化しました」

「オーロラをぼっちゃんって呼ぶなっ」


 先程まで見事に煌いていた、
 青と緑の光のひだは、
 紫を経て赤く染まりはじめている。


「しかし、ぼっちゃんは妻としたら、
 何と態度の横柄な−−
 夫の膝枕で温泉三昧とは」


「しょうがないだろう、僕が主なんだから。
 お前が妻なんじゃないのか?

 家事はお前の仕事だろうに」

「いや、
 そこはベッドでの役割で決まるものです」

「ふん。まだやってもみないのに、
 何故わかる?」

「それでは、役割決めのため、
 勝負をしますか?」


 シエルは頭を起こして、
 ざばっと湯面を乱し、
 セバスチャンを振り返る。

 セバスチャンは、
 にっこり悪魔のような微笑をしながら、
 フル−レを二本、手にしていた。


「やっぱり・・・・それ捨てろ!
 こんなに温泉につかってふやけているのに
 ここで剣勝負をしろと?
 のぼせるからやめてくれ。

 しかも全裸だし」

「夫になりたいのなら、それくらいの男気を
 見せてくれなくては−−」

「お前はどんな夫像を持ってるんだ!

 狂ってる・・というか、
 ほとんど変態の域に入ってるぞ、それ!

 大体お前は服一つ脱いでないじゃないか
 お前も入れ」


「そうですか−−」


 セバスチャンは黒い燕尾服を脱ぎ、
 手近なところに生える木の枝にひっかけ、
 靴をぬいで外に揃えて置いた。

 そして白いワイシャツとベストにスラックスのまま、温泉に入り、
 シエルを抱きかかえる。

「なんで、上着だけ・・・」

「では失礼して−−」


 セバスチャンは、タイを緩めて、
 白いシャツの一番上と、
 二番目のボタンだけはずした。

「全部脱げばいいだろう?」

「見たいんですか?やらしいですね−−
 でもそういう訳にはいきません。

 主の前でそんな格好を晒すくらいなら
 死んだ方がましです」

「それぐらいで死ぬのか」

「ええ、何でしたら−−」

「ちょっと待て、手を見せてみろ!」


 怪訝な顔をして両手を見せるセバスチャン


「ふん、またなんかの魔剣が出てくる展開に
 なるかと思ったが・・」

「考えすぎですよ」

「何でしたら・・・
 の続きは何だったんだ?」

「ベストだけなら脱いでも構いませんがと
 言おうと−−」

「それじゃ脱いでも、
 あんまり変わらない気が・・」


 シエルの言葉を遮って、
 セバスチャンがシエルに口づけた。
 シエルが瞼を閉じて、セバスチャンの背中に手を回そうとすると、
 セバスチャンは唇を離した。

「ああ、
 またぼっちゃんの瞳に戻っていきますね」

「オーロラ実況要らないから」

 シエルはオーロラに見とれるセバスチャンの両頬を手で挟んで、唇を寄せた。

 永遠の暇をもてあます、
 怠惰な悪魔の日常の終わりまであと三日。

*****************************

「ぼっちゃん−−これで4度目ですよ」

「・・・・」


 ホテルの窓の外は、まるで一枚ベールを越したような、高緯度の弱い陽が差している。
 空気は張りつめ、乾燥し、
 とてもこれから夏を迎えるとは思えない。

 シエルは純白の寝具の中に、
 頭まですっぽりと潜らせて、
 一向に出てこようとはしなかった。

 セバスチャンは燕尾服をぴしっと身につけ
 窓の外をみながら、額に手をあてている。

「どうあっても、
 起きるつもりはないのですか?

 仕方の無い人ですね−−。
 私の顔を見るのがそんなに嫌ですか?」

「嫌だ・・」

「−−そうですか。
 ではしばらくそうしていらしてください。

 私はアルマンナギャオを見てきます」

「何だ・・それは」


 布団越しに、
 くぐもったシエルの声が聞こえる。


「大地溝帯です。
 本当は二人で行く予定でしたが、
 こう、臍を曲げられては、
 行きそうにありませんものね」

「やっぱりこの旅は、
 地層が目的だったんだな・・
 新婚旅行なぞ名目で」


 シエルの口調に怒気が篭ってきて、
 セバスチャンは大きなため息をつきながら、寝台に近づいた。


「違いますよ−−
 火山に行くんでもいいんですよ?私は」

「どっちにしろ、僕にはつまらん・・

 お前は本当にひどい奴だな。
 埒が明かないと思ったら、
 すぐに一人で社会化見学か・・」


 セバスチャンは寝具を、
 ばさっと力づくで剥ぎ取ると、
 シエルはふくれっ面をしながら、
 足を抱えて、身体を丸くしていた。

 また一際大きなため息をついて、
 困ったような顔をしながら、
 セバスチャンがつぶやく。


「アンモナイトみたいな格好して−−」

「ほかに喩えようがあるだろう・・・
 お前の好きな・・」

「猫には似てませんよ」

「ふん。布団を返せ!」


 暴れるシエルの両腕を押さえて、
 セバスチャンが言う。


「お顔くらい見せてください。
 妻になった顔を−−」

「それが嫌だというんだ!

 恥ずかしいから見るなっ!
 舌噛み切るぞ、今、この場で」

 
 尚もセバスチャンの下で、
 シエルは暴れ続ける。


「どうせ、すぐくっつきますけど−−
 それはやめておいてください」

「思い出してキスが出来なくなるとでも?」

「その逆です、
 毎回、貴方の舌を食べたい衝動に、
 駆られてしまいます」

「この悪魔がっ!」

「ええ、私はあくまで悪魔の旦那ですから」

「もはや意味がわからん・・」


 シエルはセバスチャンの拘束から逃れ、
 上体を起こすと、
 寝台横のサイドテーブルの上に、
 銀の盆に載せられた手紙が置いてあるのに気づいた。

 ・・僕に手紙?女王陛下から?
 まさかな・・・
 僕はもう彼女の番犬じゃない・・


「その手紙は?」

「ご自分でお開けになってください」


 シエルが横に添えられた銀のペーパーナイフで封をあけると、
 見たことも無い薄い文様の長細い紙に
 なにやら文字が縦に書かれていた。


「オーロラに 君が瞳を 思はざれば 
 たやすく知れまし 夢かうつつか・・・

 なんだ・・これは?
 暗号か?」


 シエルは、その短冊状の紙を表にしたり、
 裏に返したり、陽にかざしたりして、
 念入りに調べている。

 セバスチャンはクスクス笑いながら、
 シエルの背中から抱きしめて耳元で囁いた
 

「後朝(きぬぎぬ)の歌です」

「何だ・・それは?」

「事が終わった翌朝に、
 男性から女性に恋歌を贈るのですよ。

 仮の一夜などではなく、
 また逢瀬を重ねましょうという意味で−−

 ぼっちゃんは、男の子ですけど」

「変な風習だな・・」

「おや、あんまりですね。
 愛の囁きが欲しいと、
 あんなに求めていらっしゃったのに」

「オーロラと古語がシュールだ」

「文学的解釈はこの際求めてませんよ−−
 ぼっちゃんに、
 返歌を期待できそうにはありませんね」

 口を尖らせて、不服そうにシエルが呟く。

「詩的才能が無いと言いたいんだな・・」

「いえいえ、返してくださるというなら、
 どんな歌でも喜びますよ。

 多少の字余りも許します」

 十分、二十分、三十分と時が経つ中、
 シエルは指を広げて数を数えたり、
 ぶつぶつと口の中でつぶやいている。

 セバスチャンは、
 そんな様子を愉快気に見つめながら、
 シエルの耳に唇をあてたり、
 髪の毛を撫で解かしたり、
 首筋にキスの雨を降らせたりして、
 時間を潰している。


「邪魔だぞ、集中できない」

「すみません、あまりにも、
 ご様子が可愛らしかったもので−−」
 

 セバスチャンはそう言うと、
 シエルを膝の上に乗せて、
 後ろから抱きしめなおした。


「そうやって、じっとしていろ」

「御意」


 小一時間ほどたって、
 シエルがセバスチャンに命じた。


「よし、何か書くものを」

 
 セバスチャンの用意した紙にさらさらと
 書き付けて、渡した。


「我が恋は 闇をさまよう ぬばたまの
 漆黒の髪と 見まごうほどに−−

 よく考えると意味がわかりませんが、
 まぁ黒いという事ですね。」

「文学的解釈は無しのはずだろう?」

「とても嬉しいですよ、本当に。
 お礼に抱いてさしあげましょう」

「物凄く上からの物言いだな」


 後ろからシエルの胸に伸ばされた手をはねつけて、シエルが不満げに言う。


「じゃ、服を着替えて、
 大地溝帯か火山見にいきますか?」

「嫌だ」

「では、今日は一日こうして、
 貴方を抱いて過ごしましょう。
 そうしたかったのでしょう?」

「一々返事をきくな」


 背後から、
 シエルの赤く染まった顔を横に向かせて、
 セバスチャンはそっと唇を合わせた。

 永遠の暇をもてあます、
 怠惰な悪魔の日常の終わりまであと二日。

************************

「ぼっちゃん、着きましたよ」


 セバスチャンに手をとられ、
 シエルは意外そうな顔をして、降り立った


「どうかなされましたか?」

「いや、サンクトペテルブルクは、
 もっと涼しい所かと想像してた・・」


 汗ばむような陽気にうんざりした顔をしながら、シエルは建設中の建物に目をやる。


「ええ、ここの日中は、
 夏は三十度を超しますからね。
 初夏とはいえ、
 今も二十五度は軽く超えているでしょう。
 夜は一転して十度以下になりますよ」

「こんな所に住む奴の気がしれない・・」

「仮にもロシア帝国の首都ですよ」

「あの建設中の建物はなんだ?」

「ああ、あれは、
 スパス・ナ・クローヴィ聖堂ですね。
 数年前に爆弾を投げつけられて殺された、
 アレクサンドル2世の暗殺現場の上に、
 彼を弔うために、
 建てられようとしている教会です」

「ひどい死に様だな・・
 悪魔よりよっぽど酷いことをする」

 
 シエルは、薔薇が華やかに咲いたような美しい顔に、皮肉な笑いを浮かべた。


「ええ、その上にさらに教会を建てるなんて
 悪趣味なことも平気でできますからね。
 人間は−−」


 セバスチャンは、シエルと共に冷笑しながら、そっとシエルの小さな肩を抱き寄せる。


「暑苦しい、離れろ」

「嘘おっしゃい、今の私の体温は氷くらいですよ、冷やしてあげようと思いましたのに」

「死体に張り付かれているようで、
 もっと嫌だ」

「ご機嫌斜めですね」


 眉を顰め、セバスチャンはシエルの身体から身を離した。


「当たり前だ。昨日馬鹿みたいにずっと・・
 おかげで、体中あちこち痛いは、軋むは。

 誰のせいだと思ってるんだ」


 シエルは恨みがましく、
 セバスチャンを睨みつける。
 しかし、その顔を見てセバスチャンは、
 くすくすと笑いを隠そうともせず、
 非常に愉快そうにしている。


「それは申し訳ありませんでした。
 熱をもたれていたのは、
 別の場所だったのですね−−

 もうじきホテルに着きますから、
 そうしたら舐めて冷やして差し上げます」

「・・・・」


 シエルは真っ赤な顔をして俯いて、
 立ち止まった。


「ぼっちゃん、さすがにここでは無理ですよ
 幾ら私でも−−」


「ぶぁかか??? 誰がここでって言った!
 もう知らんっ!」


 恐ろしい勢いで歩き始めたシエルの後を、
 またクスクス笑いながら、セバスチャンが
 追っていた。


「タオルはここに置いておきますからね、
 同志シエリ」

「ロシア語読みするな、同志セバスキ!
 っていうか、
 そもそもボリシェビキごっこを止めろ。

 ルームサービスに聞かれたら、
 即効で軍隊が飛んできて、
 良くてシベリア拘留、
 悪くて即日銃殺だぞ」


 洗面所で顔を洗ったシエルは、
 置かれたタオルで顔を拭いた。


「革命が近そうですものね。
 ホテルを引き払うときは、
 全ての部屋の聖書をマルクスの資本論と、
 取り替えておきましょうか−−」

「悪戯はやめておけ。
 宿泊客が銃殺になるどころか、
 このホテルごと焼き払われる」

「お優しいのですね」

「そういう問題じゃない。
 お前が残酷すぎるんだ」

「お褒めいただき光栄です」

 
 嬉しそうに微笑むセバスチャンに対して、
 舌打ちしながら、シエルが尋ねる。


「悪魔にとって侮蔑的な言葉ってなんだ?」

「そうですね−−馬鹿とかボケとかカスとか
 そんなんじゃないでしょうか?」

「・・・普通だ」

「馬鹿なこと聞いてないで、明日の計画を」

「いま馬鹿って言ったな?」

 
 シエルはセバスチャンを見上げて、
 睨みつける。

「すみません、つい−−
 敬語を忘れてしまいました。

 お馬鹿なことお聞きにならないで」

「謝るポイントが違うっ!」

「ここはスルーで−−
 明日の計画ですが、
 何時からエルミタージュ美術館に−−」

「主をスルーとは、貴様いい度胸だな」


「しつこいと嫌われますよ。

 ああ、でもご自分の欲望には正直に、
 いくらしつこく求められても、
 それは結構ですよ」

「しつこいのはお前だ」


 シエルは怒って、洗面所を出ようとすると
 その背後からセバスチャンは、
 シエルを抱きしめて、
 そのシャツのボタンを外し、
 胸を白い手袋に包まれた手でまさぐる。

 手を離させようと暴れれば暴れるほど、 
 セバスチャンに力強く抱きしめられる。


「ええ、私はあくまで悪魔の妻を飽くまで貪りたいのですから」

「あくま、あくまと、うざったい!
 意味がわからん」


 シエルは、手袋とシャツの袖口に垣間見えるセバスチャンの手首に噛み付いた。

 噛まれたままの腕ごと持ち上げて、
 シエルの顔を上げさせ、セバスチャンは、
 シエルの首筋に唇を這わせて、
 強く吸い上げる。

 セバスチャンが唇を離すと、
 そこには小さな薔薇のつぼみのような、
 赤いあざが浮かび上がった。


「お黙りにならないと、こうして体中吸い尽くして、まだら模様になってしまいますよ。
 せっかくの白い滑らかなこの肌が」

「ふん、そうしたきゃ、するがいいさ」


 いよいよふくれっ面のシエルに、
 喉を鳴らして笑いながら、
 セバスチャンが言う。
 

「では、遠慮なく。
 なるべく人目につくところに沢山つけて、
 差し上げますね。

 ああ、ついでに、このホテルで天然痘が発生したと、噂でも流しておきましょう。

 きっとすぐお医者様がこちらに、
 お見えになりますよ。

 診察の結果、キスマークだとわかったら、
 その方はどんな表情をなさるのでしょうね

 いまから楽しみで仕方ありません」

「僕に天然痘患者の疑いを着せる気か!?
 何て酷い・・・悪趣味な遊びだ・・・」


 がっくりと脱力するシエルを抱きかかえ上げて、ベッドに運ぶセバスチャン。


「冗談ですよ。
 貴方の身体は私以外の誰にも、
 見せたくありませんから」

「おまえの本気も冗談も、僕には一向に
 区別がつかないんだ・・・

 こうしているのも、
 お前の悪い冗談の一部にさえ思えてくる」


 シエルをベッドに横たえて、その小さな身体の上に覆いかぶさり、膝を抱え上げながら
 セバスチャンは、甘い声で囁くように言った。


「こうして繋がっているときだけが、
 私たちの真実です」


 セバスチャンの身体の上に馬乗りになって
 シエルは、セバスチャンのベストを脱がせ
 白いシャツのボタンを外そうとしている。

 その容易く手折れそうな程細い手首を掴み
 シエルを抱き寄せるセバスチャン。


「どうしても私の服を脱がせたいんですね」

「どう考えてもおかしいだろう?
 僕ばかり脱がされて」

「女役はそういうものです。
 大体私を脱がせて、
 どうなさるおつもりなのですか?

 貴方は何もしなくていいのです」

「そういうことじゃなくて・・・」 
 
「肌と肌を重ねたいと?」

「なんで全部言葉にするんだ・・お前は」


 真っ赤な顔をしてシエルはそっぽを向く。
 セバスチャンは、シエルの手首を離し、
 シャツのボタンを外して、
 その白く冷たい胸の上にシエルの頬を当て
 抱きしめる。


「ぼっちゃんは、サンクトペテルブルクの
 パラドックスをご存知ですか?」


 優しくシエルの後ろ髪を撫でながら、
 セバスチャンが尋ねた。


「何だ、それは?」


 セバスチャンは、シエルの目の前で、
 手を握り締め、
 ゆっくり開いて銀貨を見せた。


「なんだ・・手品か」

「違います、今から説明するのに、
 銀貨が要るので、出しただけです・・

 ここに銀貨があります」

「それはもう知ってる」

「茶々をいれないでください。
 ぼっちゃんのお勉強の時間なんですから」

「寝屋で勉強なんかしたくないぞ、僕は」

 
 軽く吐息をついて、諭すような口調で、 
 セバスチャンが静かにたしなめる。


「それでは、頭の中が淫らなことしか、
 無くなってしまいますよ。
 愚かで淫猥な主になってしまいます」

「そうなったら、
 もう僕に興味がなくなるか?」


 シエルは、大きな青碧眼の眼で、
 セバスチャンの作り物のように綺麗な顔を
 見上げる。


「そうですね−−そうなったら、淫欲地獄に
 落としてあげます、私の手で」

「あまり、今と変わらない気が・・・」

「そんなに酷いことをしたつもりは、
 ないんですが−−」

「じゃあ、お前の言う酷いは・・」

「知りたいですか?」

「いや、知ってはいけない気がする。
 さっきの話の続きを聞かせろ」


 シエルは、
 セバスチャンの掌の銀貨に視線を戻した。

 セバスチャンは銀貨を指で弾いて、
 空中高くに飛ばした。
 落ちてきた銀貨は、
 セバスチャンの掌で高速回転している。


「こうしてコインを投げて、
 止まった時に表が出たら、
 賞金がもらえるゲームがあるとします。

 無論、裏が出たら何ももらえません」

「単純なゲームだな。二分の一の確率の。
 なんの芸もない」


 銀貨は止まって、裏面がでている。


「では、お前はそのゲームに、
 今、負けたということだな。
 賞金ももらえない」

「ええ、ですが、
 ここにちょっとしたルールがございまして
 
 裏が出続けると、その次に表が出た時には
 賞金が倍倍に増えるのです。

 つまり裏が出た回数倍分の賞金が、
 表がでたときにもらえます」


 また、セバスチャンがコインを投げて、
 掌におちると、次は表面がでていた。


「たとえば賞金を1シエルとすると、
 先程、裏が出たので、
 今回私は2シエルの賞金を、
 手にすることができるのです」

「茶々を入れたくないんだが、
 賞金の単位をそれにしなくても、
 いいんじゃないのか?」

「私が説明しやすいのです」


 またコインを投げる。すると表がでた。


「今回は、先程賞金をもらってから、
 まだ裏が一度も出ていないので、
 賞金は1シエルのみです」

「ふん、なるほど、一攫千金を狙うためには
 賞金が出ない裏が出続けた方が、
 良いというわけか・・・」

「まさにその通りです。さすがはぼっちゃん
 いえ、我が妻」


 セバスチャンは、
 シエルの額に軽く口づけした。


「それでは問題です。
 今開始から、裏が連続9回で続けて
 10回目でやっと表が出ました。

 そのときの賞金は−−おいくら?」


 間髪いれず、シエルが答える。


「512シエル!」

「正解です。なかなかに賢いですよ。
 ここまではよく理解していらっしゃる。
 ですが、答えるときは、
 大きな声ではーいと挙手してくださいね」

「この体勢でか?お前の顔に直撃するぞ」


 セバスチャンの胸の上に頭を置きながら、
 シエルが言う。


「当然、避けます、それくらい」

「いや、そこが問題なんじゃなくて、
 挙手する必要がないだろう・・・」

「では続きです。

 もし、このゲームに参加したい人が、
 参加費を払わなければいけないなら、
 幾らまでなら支払っても、
 参加するべきでしょうか?」


「それは・・・1シエル儲ける確率は1/2
 だからその時点では、
 参加費は0.5シエルまでならとんとん。

 2シエル儲ける確率は1/4、その時点での
 参加費は0.25シエル+0.5シエルで・・・
 うーん・・難しいな」

「その考え方で数学的には正しいのですよ。
 そして貴方もお気づきの通り、
 その計算方法だと答えは無限大。

 つまり参加費が幾らであっても
 参加したほうが得ということになります」

「ありえない・・・」

「ええ、人間の現実の世界で試せば、
 十回目で初めて表が出て、
 512シエルもらえるのは、
 たったの1/1024の確率です

 残りの1023回はそれ以下の賞金になるので
 参加費がそこまで高かったら、
 必ず損をします」

「それがパラドックスなんだな?」

「ええ、そうです」


 シエルは、
 セバスチャンの紅茶色の瞳を見つめている
 この自分の執事が、自分程にはこの状況に
 満足しているわけではないのではないかと、
 考えている。
 
 シエルがどんなにその下で身悶えし、
 忘我の境地にあっても、この紅茶色の瞳は
 どこか遠くをみていることがあるのだ。


 ・・結婚を断り続ければよかったのか?
 ・・それとも身体を、
 繋げなければよかったのか?・・


 試しに誘えば、すぐにシエルの思い通りに
 事を進めてくれる。

 こうして馬乗りになり、唇を重ねれば、
 次の瞬間には、 
 もう身体が繋げられているのだ


 ・・こいつは嘘はいわない・・


 だから本当に、身体をつなげるために、
 結婚を申し込んだのだろう。
 そして、それには満足しているのだろう。
 それでもその心の裏に、
 なにかを隠し持っている。

 でもそれは自分とて同じこと。
 この結婚ゲームは、魔剣を探し悪魔の生を
 断ち切るまでの余興にすぎない・・


「私に抱かれながら、
 考え事とは随分余裕が出てきてらっしゃる
 じゃありませんか。

 連日連夜なので手加減してあげたのに、
 これからは本気でいきますよ。
 何も考えられなくしてさしあげます」


 セバスチャンは上体を起こして、
 シエルの鎖骨に漆黒の前髪を当てながら、
 シエルの腰を思い切り掴んだ。


 「さっきの話の続きを・・痛っ」


 シエルは寝台に四肢を弛緩させたまま、
 うつ伏せになっている。
 二の腕に手形の内出血の跡が、
 くっきり残されている。


「申し訳ありません、ちょっと、
 本気になり過ぎてしまいましたね」

 
 出来てしまった痣を舐めて治そうとするセバスチャンを制止して、シエルが問いかける


「どうしてそんな逆説が生まれるんだ?」

「さっきの考え事はそれですか?」


 しばらく答えを待ってもシエルが何も言おうとしないので、
 首を僅かに傾げながらも微笑して、
 セバスチャンは問いに答えた。


「サンクトペテルブルクの逆説を破るために
 幾つかの考え方が提示されてきました。

 現実では、無限に賞金を払い続けられる胴元は存在しません。
 ずっと裏が出続けて賞金が膨大になったら
 胴元は破産して、ゲーム終了です」


「ふん、なるほど。
 でも何かしっくりこないな」

「他には、限界効用説もあります」

「物凄いめんどくさそうな学説名だから、
 端的に、手短に説明してみろ」

「そうですね−−

 貧乏な人が、資産が倍に増えたら狂喜しますが、億万長者の資産が倍になっても、
 どうせ使い切れないのには変わりないので
 そこまで喜ばない−−

 つまり
 効用には限界があるということです」

「賞金がいくら倍に倍になるといっても、
 金持ちはリスクの方を優先して、
 儲けに貪欲にならないということか」

「まぁ、そんなようなものです」

「それの方が、しっくりくるな」


 突然、
 セバスチャンがクスクスと笑い始めた。


「なんでそこで笑うんだ?」
 

 不機嫌そうにシエルが尋ねる。


「ぼっちゃんには、やはり人間の論理が
 しっくりくるのですね−−

 身体は悪魔なのに−−」

「それが可笑しいか?お前はさっきの説明が
 しっくりしないのか?」

「ふふふ。ぼっちゃん、
 さっきの逆説の根本は、
 人間が知りもしない、
 無限を扱うから起こることなのですよ?」


「ではお前にとってはどうなんだ?」


「参加費つまり期待値が無限大になるのは、
 ゲームを永久に続けることができるという、現実にはあり得ない仮定をしているから
 逆説が生まれると人間は考えますが−−

 悪魔は無限に永久的にゲームを続けられるのです、自分が欲しいと思うところまで」

「ではお前は確率が天文学的数字の低さでも
 無限大に掛金を支払って、そのゲームに
 参加するべきだと?」

「まさにその通りですよ、ぼっちゃん」

「そんなことをしても得はしないだろう?」

「するのですよ。無限ならね。
 それだけは覚えておいてくださいね」


 セバスチャンは念を押すように、ゆっくりと言葉を発し、シエルの眼を見つめる。


「僕はそう考えないし、
 そんなゲームに参加もしないぞ」

「ええ、考えるのは私で、ゲームをするのも
 私です」

「明日はエルミタージュ美術館に、
 朝から行きましょうね」


 ・・冬宮と呼ばれた荘厳な宮殿

 冬のネヴァ川の様な青磁色と白の美しい建物とその中に眠る幾多の美術品を見るのは、
 昔からの僕の夢だった・・


「そろそろ夢は移ろい、また貴方は違う夢を
 ご覧になることでしょう」

「何をいってるんだ?セバスチャン・・」

「エルミタージュ美術館には、
 聖ゲオルギウスの、
 ロシア風の読みでは、
 聖ゲオルギーの間があります。

 そこから先は、
 もう申さなくても分かりましょう?」


 シエルは驚愕して顔を強張らせ、
 セバスチャンを見つめる。

 そうか・・・もう奴を見つけていたのか。
 明日で僕は魔剣を手に入れ、
 悪魔としての生を終えることになるのか。

 それで、別れを惜しんで?
 
 いや、そんな事はしないだろう、お前は。
 何かの目的のため?
 わからない、何時だってお前の考える事は
 僕にはさっぱりわからない・・・

 
 −−ぼっちゃん、有限の生き物であった
 貴方には、無限のパラドックスの意味が
 分からない−−
 たとえ計算式を目の前にしていても、
 それの真に意味するところがわからない−
 その呪いも−−


「明日が最後の・・」

「さぁ、貴方を、
 今日という日はずっと抱きましょう」


 −−貴方が気を失うまで、いや失っても。

 その時私は貴方に伝えることがあるから−
 

 −−たとえ、この夢が終わって
 幾多の夢を経た後に、
 貴方がうつし世に帰られても、
 サンクトペテルブルグの
 パラドックスを忘れないでくださいね−−

 私はゲームに勝ちにいきますから。


 永遠の暇をもてあます、
 怠惰な悪魔の日常の終わりまであと一日
<完>


****************

 本編第五章47ページに続く。