いつからだろう?気安く触れるのを許すようになったのは。
いつからだろう?口付けを許すようになったのは。
僕とセバスチャンの関係は、主人と執事であると共に、恋人でもあった。
好きですと言われ、優しく触れられる。
愛していますと言われ、キスを落とされる。
その時は、その甘い時間に酔いしれるが、その実、僕はあまりよく思っていなかった。
触れ方なんて、執事のそれじゃない。
キスだって、執事はしない。
していることは、恋人同士そのもの。だからきっと、僕たちは恋人で正しいのだろう。
でも。
好きだとか、愛しているとかの言葉だけじゃ足りなくて、
不安に駆られて肌を合わせる。
けれど、不安は消えるどころか膨らんでいくばかり。
信じていないわけじゃない。
愛しているからこそ、大切だからこそ、
形がないと不安になるんだ。
青の魔法
風のない、静かな夜。
セバスチャンの持っている蝋燭の灯りと、燃え上がる暖炉の炎が、部屋の中を優しく照らしている。
そういえば、あの日もこんな夜だった。
(壊れた指輪を戻してくれた、あの日も・・・)
「坊ちゃん。今夜は冷えますので、暖炉をいつもより暖かくしております」
暑くなったら呼んで下さいね、と言いながら、セバスチャンは燭台をサイドテーブルに置いた。
「ああ・・・」
シエルは気のない返事をし、ぼんやりと暖炉の火を見つめた。
パチパチと石炭の爆ぜる音が、心地良く耳に届く。
「どうかなさいましたか?」
シエルがあまりにもぼんやりしていたからだろう、セバスチャンが心配そうな顔で、彼の顔を覗き込んできた。
(こんなに優しそうな顔をされると、こいつが悪魔だという事を忘れそうになるな・・・)
けれど、忘れてはいけない。
こいつは悪魔なんだ。
契約があるから傍にいて、こうやって仕えている。
「いや、ただ・・・静かだな、と思って」
「そうですね。雨も風もなく、今夜は静かですね」
穏やかな顔で同意したセバスチャンは、シエルの隣に腰掛けた。
すぐ隣に大好きな香りを感じ、シエルの顔は、自然と緩んでしまう。
手を伸ばせば、届く距離にある温もり。
今なら訊けるかもしれない。
あの時は疑問に思わなかったけれど、月日の経った今だからこそ、不思議に思う事。
「セバスチャン」
「はい、何でしょう?」
シエルが名前を呼び、セバスチャンの方を向く。そうすると、彼もシエルの方を向いて、視線を合わせてくれる。
悪魔の癖に、こうやって真摯に向き合ってくれるところが、シエルは割とと好きだった。
シエルは静かに息を吸い込み、左手の指輪に触れながら、ずっと考えていた事を口にした。
「あの時・・・リジーがこの指輪を壊してしまった時、どうしてお前は僕にこれを戻したんだ?」
「どうして、と言われましても・・・」
困ったように笑うので、訊かない方が良かったのかと不安になる。
「あの時も言いましたが、大切なものだったのでしょう?」
「それはそうだが・・・」
確かに、大切なものだった。
けれど、壊れた指輪を自らの手で棄てた事には、きちんと意味があったのだ。
覚悟を決めた上で手放したのに、すぐに手元に戻ってきてしまった。
もちろん、嬉しくなかった訳ではないが、胸の中には、複雑な想いが渦巻いていた。
『指輪がなくとも、ファントムハイヴ家当主は、この僕だ』
指輪がなくても、僕は誇りを失わない。
『指輪は幾度となく当主の断末魔を聞いてきた』
いつかは僕も、この指輪に看取られながら、断末魔をあげるのだろうか。
『指輪を棄てて、もしかしたら聞こえなくなるかもしれない・・・そう思ってた』
夜毎鳴り響く悲鳴の地獄から、解放されると思っていた。
前向きの気持ちと、後ろ向きの気持ち。
セバスチャンは気付いていたのだろうか。だから自分に、指輪を戻したのだろうか?
甘えは許さないと。
固く拳を握りしめていると、セバスチャンの手に包み込まれ、そっと拳を開かれた。
「実は、今まで黙っていたことがあります」
「!・・・何だ?」
突然の告白に、シエルの胸はざわめき立った。
不安に耐えるように、自分の手に触れているセバスチャンのそれを、強く握りしめてしまう。
「この指輪を貴方に戻した事には、二つの意味があったのです」
「二つの・・・意味?」
一つは、ファントムハイヴ家当主ならば、持つべきだという事だろうか。
だとしたら、あともう一つの理由は?
「ええ。指輪を棄てたところで、貴方がファントムハイヴ家の当主であるという事実に、変わりはない。
高貴な立場であり、高貴な魂を持つ貴方だからこそ、この指輪を持つべきなのです」
ですから、『この指輪は貴方の指に在る為のもの』と申したでしょう?と話される内容は、ほとんどシエルの予想通りだった。
「じゃあ・・・もう一つは?」
「もう一つは、私の願いです」
「願い?」
(この悪魔の口から、願いという言葉を聞くなんて・・・)
シエルは、どこか滑稽な気分だった。
しかし、理由を話すセバスチャンの顔が、照れくさそうに微笑んでいる事に気付いたので、芽生えていた不安が少しずつ溶けてゆく。
セバスチャンがこんな顔をする時は、執事ではなく、決まって恋人の姿でいる時だから。
シエルにじっと見つめられ、セバスチャンは、その先の答えを求められていると気付いた。
いつかは話そうと思っていた、自分の願いを。
「坊ちゃんは、男が指輪を贈るという意味をご存知ですか?」
「!?・・・特別だって、言いたいのか?」
「ええ、その通りです。指輪なんて、誰にでも贈るものじゃないでしょう?」
(確かに)
指輪と言えば、恋人同士や夫婦の間で贈られるのが一般的だ。
(でも・・・)
「これは、元々僕の指輪だろう?お前の言っている意味では、筋が通らないじゃないか」
シエルに指輪を戻したのは、恋人だから特別に贈った、と言いたいらしい。
けれど、指輪は元からシエルのものなので、プレゼントとして贈ったことにはならない。
(一体どういう意味なんだ?)
いつの間にか不安は消え去り、シエルの頭には、疑問ばかりが膨れ上がっていく。
「一度朽ち果てたものを再生し、貴方に戻す・・・一度死んで蘇った貴方には、その指輪ほど相応しいものはないでしょう?」
「・・・・・・ッ」
数年前の忌まわしい光景が頭の中を過ぎり、シエルはギリリと歯噛みした。
「それに・・・」
顔をしかめているシエルの頬に手を添え、セバスチャンはゆるりと撫でた。
宥めるように滑るその感触に、しかめていた顔の力が緩む。
「あの時の貴方に、特別な意味で別の指輪を贈っていたら、きっと受け取らなかったでしょう?」
「そう・・・かもな」
あの頃は、今よりも素直さがなく、意地を張ってばかりだった。
そんな自分に渡されたのでは、セバスチャンの言う通り、きっと受け取らなかっただろう。
今だからこそ、受け入れられる事実。
戻ってきた指輪に、そんな意味が込められていたなんて、ちっとも分からなかった。
セバスチャンの照れくさそうな顔や、頬を撫でてくれた手の感触を心の中で反芻し、シエルは指輪を愛おしそうに撫でた。
「今の話、そんなに嬉しかったですか?」
「ああ。・・・ずっと、形あるものが欲しかったから」
「・・・と、言いますと?」
初めて聞かされるシエルの本音に、セバスチャンは目を丸くした。
「好きとか愛してるとか、そんな不確かな言葉じゃなくて・・・何か形あるもので、お前の気持ちが欲しかったんだ」
だから、特別な意味を込めて戻されたこの指輪を、とても愛おしく感じるのだ。
「形なら、あるじゃないですか」
「・・・え?」
まるで至極当たり前のように言うので、シエルはポカンとセバスチャンを見上げた。
「貴方と私が、今こうやってここに存在している・・・それが、形ですよ」
「・・・でも」
「最初は主従として契約を結び、今はそれ以上に、恋人として傍にいる・・・それは、形にはなりませんか?
好きと囁くのも、愛していると触れるのも、貴方だけなんです」
(・・・そうか)
答えは、こんなにも近くにあったのだ。
セバスチャンの与えてくれるものばかりに目が行き、セバスチャン自身を見ていなかっただなんて・・・情けなくて笑ってしまう。
(セバスチャンにとって、僕が形ある餌や愛であると共に、僕にとっても、セバスチャンは形ある駒で愛なんだ)
「私の答え、お気に召して頂けましたか?」
「・・・ん」
シエルが寄り添うと、セバスチャンはその頭に手をやり、艶やかな髪を梳くように撫でた。
「それにしても・・・指輪を贈るなんて、まるで・・・」
「プロポーズのようですねぇ」
「ッ、そうだな」
もごもごと言えずにいた自分が馬鹿みたいに思えるほど、セバスチャンは、さらりと言ってのけた。
シエルが一人頬を染めていると、頭を撫でていたセバスチャンの手が、頬へと滑り落ちてきた。
一つ、触れるだけの口付けが落とされる。
「坊ちゃん。この指輪に、貴方の魂に誓います」
どこまでも坊ちゃんのお傍におります
最期まで―――
END
【あとがき】
結婚がテーマなのに、暗めのお話になってしまい、申し訳ないです><
指輪のお話は、いつか書いてみたかったので^^;
ここまで読んで下さり、ありがとうございました!!
良野りつ