恋をした女性は美しいと言うが、その上バージンホワイトのレースをこれでもかというほどふんだんにあしらったドレスを纏う彼女は、美しかった。
「リジー……綺麗だ」
たくさんの言葉で修飾するには上品すぎる彼女の輝きに、つい朴訥な言葉しか出てこない。それでも朱の差した頬を綻ばせた彼女には、伝わっただろう。
「まあシエル、いつもそっけないから、そんなに素直に言われると恥ずかしいわ」
ドレスも発色のいい化粧も緩く巻いた髪も、全てがこの時のためのもの。昔よりもずいぶんと落ち着いた所作は高貴な気品を纏って、誰の目をも釘づけにする。

心苦しく思っていたのはどうやら自分だけだったようで、昔のように抱きついてこなくなった彼女は、それでも変わらぬ弾けた笑顔で迎えてくれた。
「ほらシエル、笑って。喜んでくれないのかしら」
「リジー……僕は」
「何を今更悩んでいるの。今更私と結婚してと言っても、もう無理よ。だって私、彼のことが大好きですもの」
無邪気な笑顔が、強張っていた心を優しく解した。

*

「リジー、僕は……君と結婚できない」
言うのならもっと早くに言うべき言葉を、いや身分的にも心的にも言ってはならない言葉をシエルが急に切り出した時、彼女は心底驚いた顔をしていた。しかし、そんな表情も存外すぐに消え失せて、代わりに意想外な返事がきたのだった。
「そう。やっと言ってくれたわね」
少し俯いて、呆れているのだか安心したのか、錯綜した表情を作った彼女は、しかし何かを押し殺したような色を隠し切れていなかった。
「やっとって……」
狼狽したシエルはなんと言っていいか分からない。
「私、知っていたの。……ううん、知っていたんじゃないわ。感付いていた、といった感じかしら」
彼女の他に、もっと大事な人がいて現状との板挟みで苦しくなっていたこと。その相手に強ち想像はついていたけれど、決定的な証拠はないから、知っていたのではなく、感付いていただけだった、と。滑らかにそこまで語り終えた彼女は瞳でシエルを射ぬき、そのまっすぐで素直な輝きに、如何ともしがたい罪悪感は困惑へと変わった。
「これが女の勘よ、ナメちゃだめ」
茶目っけたっぷりにウィンクまでして、もしかすると先ほど耐えがたいような表情をしたのは見間違いだったのではないかと思う頃、不意に彼女は真面目な顔になった。
「シエル……、言ってくれて嬉しい。だけどやっぱり私、これから数日間は、自分の感情をコントロールできないと思うの。だけど、それは自分の問題だから、あなたが気に病む必要はないわ。それに、貴族だからって好きでもない許嫁と無理にひっつくのは私も賛成しないわ」
「リジー、僕はっ……君のことを好きじゃないわけではないよ」
「ふふふ、分かってるわシエル。ちょっと言い過ぎちゃったわね。あなたが私のことを大好きなのは知っているわ。だけど、それは家族とか友達とか、そういったものなんでしょう」
「……すまない、リジー」
厳しい叔母から平手の一つも飛んで来なかったのは、全て彼女の尽力のおかげだった。気持ちの整理にどれほどの時間と気苦労を要したのかは推測するしかない。なぜなら、その後彼女とは結婚式まで会うことがなかったからだ。

招待状が来た時、シエルだけでなくあのセバスチャンですら動揺していた。隅に添えられた直筆のメッセージは、彼女の生来の性格を表したようにまっすぐで明るかった。それでも裏にどんな憎しみを抱いているのかと訝しまないわけにはいかず、シエルは返した手紙に自らの困惑を洗いざらい筆記した。唯一、事実を文字にすることを避けたのは、彼女を思いやるという優しさに感けた逃げだ。
果してその返事は早急に届き、美しい筆記体が以前と変わりなく親しげな口調でシエルに語りかけた。
『シエル  絶対に結婚式には参加すること。とっても綺麗なドレスを着る予定です。あたしと結婚しなくて、本当に僕はなんて馬鹿なんだ、って思わせてあげるわ。あなたは真面目で素直な人だから、きっと今も気に病んでいるのでしょうが、それは杞憂です。私はもう先を見据えています。結婚式という晴れ晴れしい舞台で、あたしを見たら分かるはずよ。絶対に来てね。待っています。   。   リジーより
P.S.お母様のことは、気にしなくても大丈夫だからね。あなたを招待することも伝えてあります。待ってるわ』
建前でなく全ての意思を以てシエルを呼んだのだと豪語していることに大分安心した。急いで晴着を仕立て、シエルは当日、本当に久々に訪れる、しかし何も変わっていない彼女の邸宅へと馬車を走らせたのだった。



「セバスチャン」
「何でしょう」
「……帰ろう」
後ろについていた執事が息を詰めたのが分かった。ひかえめな声で、よろしいのですかと尋ねてくるその心中は容易に知れる。パーティはまだ中盤に差し掛かったところで、結婚式とは言え、そこは社交の場でもあるのだから一会社の社長は率先して他人との会話を楽しみコネクションを広げるもの。それなのに英国ファントムハイヴの社長であるシエルは早々に戦線離脱しようとしていた。
「分かっているだろう。僕がここに来ていて、その上社交的行動を起こしたならば、明日の新聞一面は決まりだ。……リジーと話せただけで、僕は満足さ」
そっと肩に手が添えられ、耳元で御意と囁かれると、二人でバルコニーに出た。まだ太陽が弱く照り輝く夕暮れだった。涼しい風が吹き始めた外には、幸い誰もおらず、ずいぶんと大きくなった主の体を抱きしめるように包んだ執事が、瞬きをするほどの間にそこから消えた。



「今日は疲れた」
「そのようでございますね」
セバスチャンの肩口に鼻を埋めて、シエルは深く息を吐いた。疲労感から頭が鈍く重たい。シエルを腕に抱いたままエスコートするセバスチャンの歩調が心地よくて、目を閉じていると眠ってしまいそうだ。
「坊ちゃん、寝てはなりませんよ。お風呂に入りましょう」
抱きかかえたままエントランスで主の帽子を器用に外し取った執事は、ゆったりとした口調で咎めた。それでも弛緩したままのシエルに思わずため息をひとつ。
「お許しください、ご主人様」
「……何」
何を言っているのかと瞳を開けてみれば、そこはホールではなく、浴室だった。おまけにシエルの身体を包むものは眼帯に至るまで全て無くなっている。
「貴様」
「やはりお叱りになりますか。私も……それなりに急いているものですから」
「何だと」
これも魔力なのか、既に並々と湯の張られたバスタブに自らの腕捲りもせずにシエルを浸からせたセバスチャンは、シャンプーを手に取る前に思い出したようにひとつキスをした。
「今日は上機嫌なんだな」
「分かりますか……まあ、そのようです」
「なんだ、ずいぶんと自信なさそうじゃないか。自分のことなのに」
水気を含んだ髪の毛にきめ細かい泡を揉みこむセバスチャンの手は、なぜだか今日は落ち着きがなかった。
「きっと……嬉しいのです」
声を聞いただけでもわかる、恥ずかしげに微笑む顔。
「何が嬉しいんだ」
「それは……、ここでは落ち着きませんから、寝室でということではいけませんか」
「珍しいな。いつもはこんな生ぬるい回答をしないのに」
「やはり、だめ、ですか」
「さっさと洗え。早く風呂から出よう」
シエルはめいっぱい子供っぽく見えるように掌で水面をぱしゃりと打った。



紅茶を用意することもなく、髪の毛も早急に乾かした事を伺わせるようにまだ少し湿りの艶がある。
「坊ちゃん」
二人はシエルのベッドに並んで腰かけ、主人と執事でなく今は恋人として手を重ねていた。
「エリザベス様のご結婚は、坊ちゃんにとっていかがでしたか」
「ん……どういうことだ」
「嬉しい、悲しい」
シエルの手を握るセバスチャンの指に一瞬力が籠ったのをシエルは感じとっていた。どんな感情が渦巻いているのだろうと不思議に思う。シエルはセバスチャンが何を言いたいのかまだ分からなかった。
「嬉しいよ」
「本当のことを言って」
「……嬉しい。本当だ。喜んだらだめか。軽薄な男だって言いたいのか」
「……いえ。その言葉を聞いて本当に安心いたしました」
昔ほどの差がなくなった体をセバスチャンに預けて、シエルは老けない男の言葉に耳を傾けていた。
「私は、昔からあなたに関わる時、エリザベス様の影を見て参りました。抱く時でさえ」
「貴様っ……、まあいい、続けろ」
いつまでも初心な反応をしてしまうのはもう仕方のないことであるが、セバスチャンは恥ずかしがるシエルを好んでいるらしい。
「ですから、この度晴れて坊ちゃんとは関係がなくなったわけです、一切。今まであったわけでもなく、不確かなものでした。私が勝手に後ろめたさから抱いた幻想にすぎなかったのですが」
そうして一息置いて、セバスチャンは言った。
「……嬉しいのです。これからはあなたの後ろに彼女を見なくてすむから」
「……」
「坊ちゃん、どうかあなたの命尽きるまで私をお傍に置いてくださいませんか」
青白い顔に覗きこまれ、その瞳が燃えるように赤いのを見た時、シエルはぞくりとした。歓喜にも似た興奮が背骨を駆け巡り、心臓に電流が走ったようにびくりと震える。
セバスチャンからのプロポーズは、果たして何度も聞いたことがある言葉で、今更確認のように繰り返されただけであるのに、今までと趣を異にしていた。
唇を舐めて開くも、何を言ったらいいのか分からない、言葉が枯渇したように頭の中は白く染まって、とにかく何か返答をせねばという焦燥感だけが募り始める。
「……っ」
開いた掌を男の肩に添わせ、そろそろとなぞると肉の薄い背中をさまよった。抱きしめるというには今更拙すぎる抱擁を相手がどう取ったかは知らない。ただ、感情が爆発して力の制御ができなくなったかのように強く抱きしめられて、苦しいのに嬉しかった。
「ああ、いけない。大事な恋人を、抱き潰してしまうなんてことになったら、私は自害するしかありません」
「お前……、洒落にならんぞ」
喉がからからに干からびて、ようやく発した声はかすれていた。
力を緩めてそれでも抱きしめられたままにベッドへ倒れこんで、次を期待する。
「初夜ですね」
「何を言ってるんだ」
「思い切り優しくしてさしあげましょう」
なぜだか酷く楽しそうな声音でセバスチャンがのしかかってきて、


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この終わり方であとがきを付けない方がおかしいというものです。笑
はじめまして、スタンです。一応句点無しの終わり方です、未完成ではありません。
初めての企画参加ということで、緊張しかなかったですが今思えば楽しかったです。
これを機に色々な企画に参加したいと思っておりますので、よろしくお願いします!
ありがとうございました