右肩の蝶

「坊ちゃん、もうご機嫌を直しては頂けませんか?」
ベッドに腰掛けた執事が、僕を宥めすかす。
僕は、シーツにギュッとくるまり、顔を背けたまま、聞こえない振りをする。
長い溜息を吐く執事。
「貴方が、私だけのものだという事を確認するのは、いけないことですか?」
「確認とはなんだ。そもそも、僕が所有されているのか?
所有されているのは、お前じゃないのか?」
僕は、執事に訊ねる。
くすっと、執事が笑う声が耳に入る。
いつも余裕綽々なヤツの顔が、見ていなくても目に浮かぶ。



ヤツが、僕を着かえさせる為に夜着を脱がせた時、普段はしない行動をした。
白い手袋に包まれた指先で、僕の右肩を愛おしそうになぞった。
気になって、ヤツの触れたところを見た。
心臓が、大きく跳ねる。
そこには、あってはならないものがあった。
右肩に、蝶のような形の・・・赤い痣。
血管を、吹き上がるように血が駆け上って行くのが分かる。
顔面に集中していく熱さ。
耳まで赤くなっているに違いない。
ヤツの方に向き直って、声を荒げて訊ねる。
「これは何だ?!セバスチャン!」
意味ありげに笑うヤツの顔に、更に頭に血が上る。
「おまっ・・お前これは・・・!!」
分かっているが、その名詞を自分の口から言うのは、あまりに恥ずかしく絶句した。
いつの間にこんなものを付けられたのか、まったく記憶にない。
もしかしたら、僕が眠ってしまっている間につけたのだろうか。
こんな勝手な真似を許した覚えはないというのに。
「坊ちゃん、よくお似合いですよ。」
甘い声で、低く囁く。
うっとりするような響き。
ヤツは、僕を視線に捉えながら、肩の蝶を辿る。
柔らかな力加減で、楽しむようにゆっくりと。
ヤツの顔は、何処か嬉しそうに見える。
いや、確かに、ヤツは喜んでいた。
僕を包み込む視線が、甘すぎて居たたまれない。
「いつの間に、こんなものを・・!」
声を荒げてはみるものの、視線はヤツから逸れてしまう。
「昨夜は随分乱れておいででしたから、お気が付かれなかったのですね。」
「・・・!!」
僕に理解の出来ないもの、それはヤツの思考。
他に誰も聞いていないとかではなく、なんというか、
生々しい記憶が甦るのは憚られるような事を、
さらりと言葉にしてしまうコイツの感覚が、僕には分からない。
昨夜の自分の姿を思い出すと、羞恥で血が沸騰しそうだ。



僕が悪魔に転生して以来、ヤツは、僕の傍にはいなかった。
身体はここにあるのに、心は遠く、僕には、必要最低限しか手を触れなかった。
別に、触れて欲しかったという事ではないが、
意味も無く髪や頬に触れては僕をからかったヤツの薄笑いを、
懐かしいと思うほどには、見慣れていたのだと思ったのだ。
ヤツは、笑わなくなった。
事あるごとに、くすくすと気に障る笑い方をしていたくせに。
皮肉にも、嫌味にも、面白そうにも、笑いはしない。
僕にしてみれば、静かになって有り難いくらいのものだけれど、
この世界には、ヤツと二人きりなのだ。
笑う事をやめたようなヤツと死ぬまで一緒にいるのは、精神衛生上よくないし、
僕個人としても、願い下げだった。
ただ、ヤツは、もう一生笑わないようなヤツではない。
今は、笑う事を忘れているだけ。
必ず、思い出す。
人間だった頃と違い、時間は際限なく幾らでもあるのだ、
ヤツが笑い方を思い出すのを待つぐらいはしてやってもいい。
英国随一と謳われた、僕の執事の為に。
優雅な身のこなしで、僕の身の回りの世話をしているこの抜け殻に、
この何も見ていない瞳に、再び世界が映るのを、僕はここで待っていてやる。
自分の為に働いた執事には、主から、相応の報酬を与えなければならないから。



どのくらいの時間が経ったのか定かではないが、それなりに長い時間が過ぎ、
ヤツは、帰って来た。
僕を呼ぶ声の響きが変わった事で、それと分かる。
振り返って見たヤツの目には、世界がありのままの光度で映っていた。
長かった不在。
ヤツは膝を折り、僕に帰還の挨拶をする。
僕は、ヤツの頭を抱き締めて、褒めてやる。
迷子になっていた飼い犬の帰還を。
勝手に遠くまで行って、それでも、帰って来た。
もう二度と、僕から離れる事のないように、僕は呪(しゅ)を掛ける。
誓いの言葉とキスで完成するそれ。
誓約が成立すれば、ヤツは僕のもの、僕は、ヤツのもの。
融け合う距離で、僕たちは生きてゆく。
命が終わる瞬間までを、二人で。
ヤツと僕に取って、命の長さは、永遠と大差ない。
僕は、とうに覚悟を決めていた。
アロイスと、この身の内で共にいた間に。
ヤツは、この決闘に必ず勝つ。
勝負は、力が互角なら、動機付けのある方が有利だ。
ヤツは、ヤツに取って決して譲る事の出来ないものの為に闘う。
クロードが闘う理由は、ヤツのそれに比べ、動機付けとしてはいささか弱かった。
その時点で、ヤツの勝利は決まったようなもの。
それなら、僕はどう動けばよいのか。

アロイスが僕に用意した未来は、喜べるものではなかったが、逃げるのは性に合わない。
あの時、アロイスは言ったのだ。
「全員、全部、幸せだ!」
それなら、その為の答えを出さなくてはなるまい。
人を試すような事をしなければ、安心できなかった子供。
いつも、信じないところからしか物事を見る事の出来なかった子供。
セバスチャンへの復讐の為に、僕を利用しようとしたけれど、
利用されたのは、彼自身だった。
ハンナとの契約の条件は、僕を悪魔に転生させる事。
それは、復讐なのか、嫉妬なのか、あるいは謝罪のつもりなのか。
多分、そのすべての思いを詰め込んだものなのだろう。
複雑に絡まる答えのどれも、正解。
全員、全部、幸せというからには、僕にもその権利があるのだろうから、
セバスチャンにその権利があるのかどうかは知らないが、
アロイスの、精一杯の思いを汲んでやりたいと思うのだ。
僕を悪魔にとは、アロイスらしい贈り物だった。
彼等は、今生の命を失うことで幸せになった。
僕たちは、悪魔として生き続ける事で、幸せになってやる。
それで、いい筈だな、アロイス。



僕の執事は、僕の元に帰って来た。
僕は、この期を逃さず罠を仕掛ける。
ヤツが、いつものペースを取り戻してしまう前に。
ヤツが僕をからかうのを楽しみにしている事を逆手に取ってやるのだ。
まるで誓いの言葉のように聞こえると気付かずに言ってしまったと思わせ、
確かな誓いの言葉を、僕は言った。
やはり、ヤツは乗ってきた。
特別な言葉に聞こえると僕に悟らせるつもりで、誓いの言葉を言う。
老獪な悪魔は、こうして時折、僕の手中に落ちて来る。
僕は、それに満足して、頬を緩ませた。
腕の中に抱いていたヤツの頭を解放すると、
嗤うつもりでいたヤツの目が、驚きに見開かれる。
不機嫌を想定したそこには、想定外の微笑み。
僕は、くすりと笑った。
ヤツが、僕をからかっては、くすりと笑う理由が、分かった気がしたから。
誓いのキスを促せば、ヤツは、跪いた体勢から伸び上がってくる。
僕の目を、真っ直ぐに見つめながら。
僕が悪魔になった事への呵責から、目を背け続けてきた赤く輝く瞳。
今、目を逸らす事無く、見入ってくる。
ヤツの瞳に映る僕の目が、笑っている。
瞼を閉じるのと、唇の感触を感じるのは、ほぼ同時だった。
触れた唇は、柔らかく僕を食み、次第に角度を深くする。
口腔へと差し出されるヤツの舌を、 僕は受け入れる。
触れられる限りの所を、浅く深く、堪能していくヤツ。
今までの距離と時間を埋めようとしているのか。
鼓動は早くなり、呼吸は浅くなっていく。
このままでは、膝に力が入らなくなってしまいそうだ。
誓いのキスというには、少々熱が籠り過ぎていた。
唇を離したヤツの眼は、妖しげな光を宿す。
もう一度唇を寄せて来るやつを静止して、儀式としてのけじめを教える。
思うままを許してしまっては、主従とは言えなくなってしまうから。

「イエス。マイ・ロード。」
礼の姿勢を取ってそう答えたヤツだが、立ち上がり様、僕を横抱きに掬い上げた。
僕は驚いて、反射的にヤツの頸にしがみ付いた。
人間だった頃は、こうして事あるごとに抱き上げられたものだ。
しかし、悪魔に転生してからのヤツは僕から距離を取っていたし、
こんな事は無かったので、思わず声が出てしまった。
ヤツは、いつものようにくすりと笑った。
自分が僕を抱き上げるのは、今に始まった事でもないだろうと言って。
コイツは、自分がどれ程の長さ、不在にしていたのかを失念している。
そんな昔の事は忘れたと告げ、僕はヤツの胸元に顔を埋める。
ヤツの胸の広さも、匂いも、どんなに遠かったか。
忘れそうに、遠く離れていたのだ。
低めだからといって、温もりがない訳ではない。
この体温も、忘れてしまうのかと思いそうだったのだ。
ヤツの腕が力を強くして、僕をしっかりと胸に押し付ける。
この腕の、力強さ。
もっと、骨が軋むほどにと、僕は思う。
二度と忘れさせないと言って、髪に口付けたヤツ。
肩に額を強く押し当てて、僕からの赦しを示す。
嘘を禁じられているヤツがそう言うのだから、もう二度と、こんな思いはしない。
そういうところだけは、信じていいのだった。



ヤツは、僕を抱きかかえたまま、屋敷まで帰って来た。
心なしか、ヤツの鼓動が早いように感じる。
寝室のベッドに、僕を下ろす。
もう眼帯をつけることの無くなった右眼に、キスを落とされた。
眉根を寄せて、困ったような顔で微笑むヤツ。
「坊ちゃん、手加減できそうにないのですが、お許し下さいますか?」
切なく苦しげな声。
僕を真上から見下ろすヤツの頬には、漆黒の髪が掛かっている。
それを、耳に掛けてやり、そのまま後頭部に手を回して、
ゆっくりと僕の方へ引き寄せる。
鼻先が触れるくらいにまで近づけたところで、囁く。
「僕は、手加減など頼んだ覚えはないぞ。」
ヤツは一瞬、目を見開いたが、すぐに不敵に笑って見せた。
「そんな事をおっしゃって。
後悔なさっても、私の所為ではありませんからね。」
「望むところだ。」
強い眼差しでヤツを見て、くすくすと笑った。



いくら応えても、ヤツは求める事を止めない。
僕は、ヤツに求められるままに限界いっぱいまで応えては、意識を飛ばす。
欲しがるヤツに、僕の全てを与えたい。
僕もまた、ヤツを欲しているのだった。
今まで、どれだけ手加減していたのかと思う激しさが、僕を狂わせる。
声を上げ、身体を仰け反らせては果てるのだ。
何度でも。



僕の右肩に蝶がとまる瞬間に気が付かない程、溺れていた、
昨夜の僕の姿を思うと、ヤツに顔を見られるのさえ恥ずかしく、
どうしていいか分からなくなって、頭まですっぽりとシーツの中に潜り込む。
朝の支度をさせようと、ヤツが、僕にシーツの中から出て来るように促すが、
どんな顔をしていればいいと言うのか。
今まで一度も付けさせたことの無い印が、右の肩にあるのに。
恥ずかしさで体温が上がる。
声を殺していても、ヤツが笑っているのが気配で分かる。
僕は体を縮こまらせて、枕に顔を押し付けた。
ギシリと音を立てて、ベッドが沈むのを感じる。
ヤツが、シーツを被った僕の上から体重を掛けてきた。
耳の辺りに顔を寄せて来る。
「誘っていらっしゃるのですか?」
シーツ越しに、ヤツの声と息が、耳に届く。
身体がビクンと反応するのは、止められない。
すぐに言い返したいのに、言葉が出て来なかった。
一瞬遅れて、シーツを跳ね除けて飛び起きる。
「そんな訳あるか!!」
既に身体を引いて備えていたヤツが、笑っている。
静かな笑顔で。
ゆっくりと差し出される、白い手袋をした手が、僕の背中に回される。
ヤツが、大事そうに、僕を胸へと引き寄せるから、
僕は身体の力を抜いて、ヤツの肩に凭れ掛かる。
ここは、僕の場所。
「私の坊ちゃん。」
ヤツの声がくぐもって聞こえる。
「声に出して言うな、恥ずかしい。」
「そうおっしゃるから、印を付けたのですが?」
声に出すのが恥ずかしければ、印を付ければいいらしい。
僕も、こいつの右肩に赤い蝶を止まらせよう。
お前は、僕のものだと言う代わりに。



End