「瞳の奥をのぞかせて」

この世にはかなう想いとかなわない想いがある。
一度失ってしまったものは、二度と戻らないように。
いくら想っても、届かない想いがあるように。
かなわない想いなら、最初から望まない方がいい。
この想いがなんという感情なのか、僕は知りたくない。
僕にとってこの想いはきっと不必要なものだから。

                 ◆   ◆   ◆

「坊ちゃん、庭の桜が見ごろになってまいりました。今年は趣向を変えて、夜桜を
見に参りませんか?」
広大な敷地に建っているファントムハイブ邸には、家令のタナカが故郷を偲んで数
十本の桜の木が植えられている。
その桜を見ることは、毎年シエルの楽しみの一つになっているのだ。
シエルの横で、アフタヌーンティーの用意を流れるような優雅な動作で進めている
黒い執事はにこやかに微笑みながら言った。
「夜桜か・・・暗くてはせっかく咲いている桜も見えないだろう。それに、夜はま
だ寒いんじゃないか?」
自分の執事兼『恋人』の誘いの言葉に、会社の書類に目を通していたシエルは、め
んどくさそうに顔を上げる。
この小さな『恋人』の返事を予想していたかのように、セバスチャンは茶色の瞳を
細め、言葉を続けた。
「幸い今夜は満月でございます。月の光の下で見る桜は、普段見る桜とは違い神秘
的だとタナカさんもお話しされてましたよ。寒がりな坊ちゃんの為に、温かい飲み
物とスイーツを用意致しますので、いかがでしょうか?」
「本当か?それなら考えてやってもいいぞ」
今、目の前に色とりどりのフルーツがたくさんのったタルトが用意されているにも
かかわらず、スイーツと聞いて、シエルは深い青色の瞳を輝かせている。
「では、決まりですね。他の使用人に知られてしまうと、大騒ぎになってしまいま
すから、二人だけで参りましょう」
紅茶を注いだティーカップを執務机の上に置くと、セバスチャンはシエルの形のい
い耳に口元を近づけて、低く囁いた。
「なっ・・・急に何をするんだ!!」
シエルは耳を押さえて、白い頬をほんのりと赤く染め、大きな椅子からずり落ちそ
うになりながら、いまだ自分の顔の近くにあるセバスチャンの顔を睨んだ。
「相変わらず、耳が弱いですね、坊ちゃんは。『恋人』同士になってから半年も経
つと言うのに・・・」
セバスチャンは白絹の手袋で覆われた手を伸ばし、シエルのほんのり赤く染まった
頬を優しくなでる。
「・・・し、仕方ないだろう。慣れないものは慣れないんだ・・・」
拗ねたような口調で言いながらもシエルは、自分の頬をなでる手に甘えるようにす
り寄る。
シエルにその自覚はないのかもしれないが、その仕草はセバスチャンの好きな猫を
思い出させる。
(猫は猫でも血統書つきの高貴な猫ですが・・・)
セバスチャンはふと口元を緩ませる。
「嗚呼・・・私の愛しい坊ちゃん」
恥ずかしそうにうつむいているシエルの顎に手をあて、少し上を向かせると、セバ
スチャンはそのふっくらとした唇に自分の唇を重ねる。
シエルのやわらかい唇の感触を楽しむように何度も軽く唇を合わせるだけの軽いキ
スを繰り返す。
悪魔のセバスチャンにしかわからない甘い香りがシエルの身体から薫ってくる。
「・・・坊ちゃん、もっとキスしてもよろしいですか?」
「・・・す、好きにしろ・・・」
そっけない言葉とは裏腹に、セバスチャンを見つめるシエルの青い瞳が少しうるん
でみえるのは気のせいだろうか。
(本当にかわいい方ですね。これでもう少し素直だといいのですが・・・)
セバスチャンは心の中で苦笑しながらも、シエルの小さな身体を片手で胸元に抱き
寄せ、ブルネットのやわらかい髪をなでた。
シエルは戸惑いながらもセバスチャンのたくましい首に細い腕をまわし、真紅に変
わった瞳を覗きこむようにみつめていた。
(僕はセバスチャンの瞳にどんな風に映っているんだろう?)
ただの特別な魂の入れ物?
か弱く、自分では何もすることができない子供?
悪魔の欲望を満たすための玩具?
セバスチャンとのキスで与えられる頭の芯がぼーっとするような感覚は決して嫌い
ではないけれど、どんな意味が込められているのかを考えるときりがない。
セバスチャンは角度を変えて、シエルの唇に深く口づける。
シエルの狭い口腔の中に舌を侵入させ、小さな形の整った歯を舌でなぞっていく。
「・・・ん・・・んふぅ・・・ん・・・」
シエルの口から甘い吐息がかすかにもれてくる。
甘い香りが一層強く薫り、セバスチャンの鼻先をくすぐるように広がっていく。
シエルは、小さな舌をセバスチャンの舌にからませようとするが、すぐに逃げられ
てしまい、逆に強くからめとられてしまう。
いつもはそっけない態度をとっているシエルもこの時ばかりは、セバスチャンとの
キスに夢中になってしまう。
お互いに名残惜しそうに唇を離すと、セバスチャンがもう一度シエルを抱き寄せ、
軽く唇を重ねる。
「坊ちゃんのキスはいつも甘いですね」
セバスチャンは肩口に顔をうずめているシエルを壊れものを扱うように優しく抱き
しめる。
「・・・セバスチャンだって、そうだぞ」
今にも消えてしまいそうなほど、小さな声でシエルはつぶやく。
「そうですか?さすがに自分のはわかりませんからね。あぁ、せっかく入れた紅茶
が冷めてしまいましたね」
机の上に置かれた紅茶からすっかり湯気が消えてしまっている。
セバスチャンはシエルを椅子に座らせると、乱れてしまった髪やリボンタイ、服装
をすばやく直し、ティーカップを下げようと手を伸ばした。
それを制するようにシエルがティーカップに細い手を伸ばし、一口飲んだ。
「いや、これでいい」
「よろしいのですか?それでは、後でさげに参ります」
さっきまでの甘い笑みは消え、いつもの執事の表情に戻ったセバスチャンは、一礼
して部屋を出て行った。
その後ろ姿を見ていたシエルは、心の中でため息をつく。
(『愛しい』・・・か。偽りの言葉だとわかっているのに、うれしいと思ってしま
うのはなぜなんだろう?あいつは、このことに気づいているのだろうか?)
今あったことをフィルムを巻き戻すように思い返し、自分の態度に不審なところは
なかっただろうかと考えてみる。
いつものようにあいつのいう『恋人』でいられただろうか。
シエルは先程交わしたセバスチャンとのキスを思い出し、しっとりとぬれた唇に触
れる。
想いのこもっていない偽りのキスだとわかっているのに。
それを思うとシエルの胸は切なく痛んだ。
自分の今の感情を自覚してしまったら、あの悪魔はなんと言うのだろうか?
僕を蔑むのだろうか?
嘲笑うのだろうか?
決して、この想いがなんという感情なのか考えてはいけない。
こんな必要のない想いは、早く自分の心から切り捨ててしまわなければ。
この感情に気づく前の自分に戻らないといけない。
これはただの悪魔との『ゲーム』だ。
甘い言葉も態度も悪魔の手管の1つなんだ。
そう思っているのに、なぜ心はこんなに揺れ動くのだろう。
セバスチャンがシエルの為に作ったフルーツタルトを一口食べる。
(味がよくわからない・・・)
涙でぼやける視界でフルーツタルトを見つめ続けた。

            ◆   ◆   ◆

事の発端は、セバスチャンがもちかけた『ゲーム』だった。
「契約が終了するまでの間、私と『ゲーム』をいたしませんか?」
ゲームの天才といわれるシエルだ。
どんなゲームでも負けたことがない。
悪魔が持ちかけてくるゲームとはどんなものなのだろうか。
興味を覚えつい聞き返してしまった。
「・・・どんなゲームだ」
「簡単なゲームです。私と坊ちゃん、二人でいるときは『恋人』同士としてふるま
うのです」
シエルは読みかけていた本をあやうく落としそうになってしまった。
「なんで、僕が執事のお前と恋人同士のまねごとなんてしないといけないんだ。意
味がわからないぞ」
睨みつけるシエルを気にする様子もなく、セバスチャンは言葉を続ける。
「恋をしたことがない坊っちゃんには、難しいゲームでしたか?」
人を小馬鹿にするような笑みを浮かべながら、セバスチャンはシエルを見下ろして
いる。
「そういう問題じゃない!!なんで男の僕とお前が恋人になるんだ!!だいたい、
恋人同士のふりをすることに意味があるのか?」
周りから優秀な執事だと称賛されているこの悪魔は、どこかの赤い死神の変な影響
でもうけたのだろうか。
シエルはセバスチャンの言葉の真意をはかりかねていた。
「悪魔には、性別も年齢も関係ありませんから、そのあたりは気にしなくてもよろ
しいかと・・・。それにレディ・エリザベスとの結婚に向けての予行練習になるの
ではありませんか?」
「・・・僕はそんなに長く生きるつもりはない」
復讐を果たすために生きているシエルにとって、誰かと結婚をする自分なんて考え
られるはずがない。
だいたい、復讐を成し遂げたら、自分の魂はこの黒い執事に契約の対価として引き
渡すことになっているのだから。
誰かを愛するなんて感情はとうの昔に忘れてしまった。
恋愛感情なんてものはきっと今のシエルにとっては、一番不必要なものだろう。
「何事も経験しておくのはいいことですよ、坊ちゃん」
「僕が聞きたいのはそういうことじゃなくて・・・」
「ただの私の気まぐれですよ。悪魔の私が人間のような感情をもつとは限りません
し、坊ちゃんも私を愛するはずがない。その二人が恋人を演じることで気持ちが変
わるのか。・・・興味がわきませんか?私は一度試してみたかったんです」
いつものにこやかな笑顔でとんでもないことを言い出したセバスチャンに、シエル
は半分あきれた気持ちと、秘かに育ちつつあったある想いに気づかれたのではない
かと内心焦り感じていた。
(このゲームだけは、どうしても受けるわけにはいかない)
いつもの冷静さをよそおいながら、シエルは、
「僕は興味など全くない。試したいのなら、他の人間を相手にすればいいだろう」
さも興味なさげに読んでいた本に視線を戻す。
「他の人間ではダメです。相手が坊ちゃんではないと意味がないのです。永く生き
てきた私が初めてこんなに興味を覚えた人間は坊ちゃんだけなのですから。それと
も坊ちゃんは、最初から負ける事がわかっている『ゲーム』はしない主義ですか?」
わざとシエルを挑発するような言葉をぶつけてくる。
「負けるだと?それは、セバスチャン、僕がお前を好きになると思っているのか?
はっ、相変わらず自惚れの強い奴だな」
ついいつもの調子で答えてしまった。
「では、『ゲーム』を受けて頂ける、ということでよろしいですね?」
にっこりと音が聞こえてきそうな微笑みのセバスチャンをみて、シエルはしまった
と思ったが、今更断れるような状況ではない。
セバスチャンはベットサイドに座り、いつの間にかわったのか悪魔の本性を現す真
紅の瞳でシエルを見ている。
シエルは、心の中で大きなため息をつきながら、自分の性格を少し恨んだ。
「・・・わかった。恋人のふりでいいんだろう?僕がセバスチャンを好きにならな
ければ、僕の勝ちということだな。僕が勝ったら、何か『褒美』はもらえるのか?」
こうなってしまったら、開き直るしかない。
セバスチャンは少し考えるようなそぶりをみせて、
「・・・そうですね。では、坊っちゃんの願いを1つかなえるというのはいかかで
しょうか?」
「じゃあ、食事を3食スイーツでもいいのか?」
「それは、坊っちゃんの執事としてお受けいたしかねます」
悪魔でも執事という立場は忘れていないようだ。
「僕の唯一の願いだとしても?」
「それ以外でお願い致します」
チェッと舌打ちすると、セバスチャンに窘められた。
(僕の本当の願いは・・・きっとかなうことのない願いなんだ)
かなわない願いなら、最初から望まない方がいい。
シエル自身の中で芽生え始めた想いが、消えてしまうように願うのもいいのかもし
れない。
消えてしまえば、この想いがなんなのか知らずにすむ。
シエルは自嘲気味に笑う。
「どうかなさいましたか?」
不思議そうにシエルを見つめるセバスチャン。
「いや、なんでもない。願いは考えておく。今、決めなくてもいいだろう?」
「はい。決まりましたら、おっしゃって下さい」
「わかった。せっかく、悪魔にかなえてもらえる願いだ。よく考えさせてもらうと
しよう」
シエルは、不敵な笑みでセバスチャンを見つめ返した。
セバスチャンは、手を伸ばし、シエルの前髪を耳にかけると、隠れていた右目を見
えるようにする。
右目を眼帯で隠していないシエルの瞳は紫と青のオッドアイにみえる。
そうセバスチャン以外には。
(いつ見ても綺麗な瞳だ。・・・その瞳に映るのが私だけになればいいのに)
シエルの右目にうかぶ契約印とセバスチャンの左手に刻まれた契約印。
見えるところにあればある程、効力を増す。
悪魔が獲物を見失わないようにという意味もあるが、それ以上のつながりを求めて
いる自分がいる。
(坊ちゃんにとっては、意味のない『ゲーム』かもしれませんが、私にとってはと
ても大切なことなんですよ)
ゲームの真意にシエルはまだ気づいていないようだ。
今、気づかれてしまっても困るのだけれど。
頭のいいシエルのことだ、もしかするとすぐに気づいてしまうかもしれない。
しかし、時間をかけて、ゆっくり慎重に事を進めていかなければ、『ゲーム』を持
ちかけた意味がなくなってしまう。
「坊ちゃん、願いのことを考えるのは、結構ですが、これから行う『ゲーム』のこ
とも忘れないで下さい。『ゲーム』の期間は私と坊ちゃんの契約が終了するまで。
または、それまでの間に私か坊ちゃんのどちらかが、本気で相手を愛し、自分の気
持ちを伝えた方が負けです」
セバスチャンは静かにそういうと、ベットから降り、シエルの足元に跪づいた。
「わかった。僕は『ゲーム』と名のつくもので負けたことはない。今、言った言葉
を忘れるなよ、セバスチャン」
「イエス・マイロード」
胸に手をあて、セバスチャンは恭しく頭を下げた。
「では、今から『ゲーム』をスタートしてもよろしいでしょうか?」
「いつからでもいいぞ」
こうなってしまっては、いつから始めても同じだろう。
シエルは軽い気持ちで答えた。
「ありがとうございます。では、さっそく」
セバスチャンはすっと立ち上がると、再びベットサイドに座った。
「坊ちゃん、夜ももう遅いですから、そろそろおやすみください」
今まで見たことがないような優しい笑顔でセバスチャンは言うと、シエルの細い肩
を抱き寄せ、白い頬にキスをした。
「な、な、なっ、何をするんだ!!」
シエルは頬を押さえながら、すばやくセバスチャンから離れた。
「決まっているじゃないですか。私たちは『恋人』同士なのですから、おやすみの
キスくらい当たり前ですよ。それとも唇の方がよかったですか?」
シエルは耳まで赤くしながら、大きなオッドアイをさらに大きくして、セバスチャ
ンを睨んだ。
「『ゲーム』はもう始まっているのですから、『恋人』同士がすることはさせて頂
きます。坊ちゃんには、少しずつ『恋人』同士がどういったことをするのか、教え
て差し上げますから、ご安心ください」
セバスチャンの満面の笑みを見ていると、一日で淑女になれるように教え込まれた
時の事を思い出した。
シエルは背筋が凍るような悪寒を感じた。
(僕はとんでもない『ゲーム』を受けてしまったのではないだろうか・・・)
そう思う反面、自分よりも体温の低いセバスチャンの唇がふれた頬は、今はどこよ
りも熱くなっている。
(悪魔でも唇はやわらかいんだな・・・)
見てはいけないと思っているのに、セバスチャンの薄い唇に目が行ってしまう。
(・・・気づかれたか?)
いつの間にか抱きかかえていた本をまくらのそばに置きつつ、様子をうかがいなが
ら、上目づかいでセバスチャンをみると、
「そんな目で見て、私を誘っているのですか?」
ベットサイドに座ったままのセバスチャンに抱きかかえられて、身体の小さなシエ
ルはセバスチャンの膝に座るような格好になってしまった。
「なっ、すぐに離せ!!」
力いっぱい手でセバスチャンの胸元を押すが、びくともしない。
シエルの身体から甘い香りが薫り始める。
(全く自覚がないというのは、怖いですね・・・)
今後は、いろいろと気をつけていかないとやっかいなことになりそうだと思う反面、
セバスチャンは内心、ぞくぞくと反応する身体と喜びに満たされていた。
「・・・キスしてほしそうな顔で見ている坊ちゃんがいけないんですよ」
「いつ、僕がそんな顔をした?」
顔を逸らすシエルの顎に手を添えると、自分の方を向かせる。
「今もしていますよ。キスしてほしいって・・・」
そういうのが早いか、ふと息が顔にかかったかと思うと、シエルの唇にセバスチャ
ンの唇が重なっていた。
思っていた以上にやわらかく、少しひんやりするセバスチャンの唇。
シエルは真紅のセバスチャンの瞳を吸い寄せられるようにみつめていた。
一方的なキスからシエルの唇を解放すると、セバスチャンはシエルを何事もなかっ
たようにベットに寝かしつけた。
「明日も予定がたくさん入っておりますから、早くおやすみください」
サイドテーブルに置いてあった燭台を持つと、セバスチャンはいつもの執事の顔で
一礼して部屋を出て行った。
暗闇の中、一人残されたシエルは、今起こったことを思い出し、熱い頬を覚ますよう
に両手でふれる。
(・・・これは『ゲーム』なんだ。だたの『ゲーム』だ)
シエルは自分に言い聞かせるように、何度も心の中で繰り返した。
残酷なほど優しいキスをした悪魔の唇の感触が消えない。
(・・・絶対に魂以外はやるものか・・・)
シエルは自分の身体を両手で抱きしめながら、そう誓った。

            ◆   ◆   ◆

ディナーを済ませ、執務室で本を読んでいると、小さく扉をノックする音が聞こえ
た。
「はいれ」
誰が来たのかは、声を聞かなくても分かっている。
「失礼致します」
扉を開け、入ってきたセバスチャンは一礼する。
「そろそろ月も昇ってまいりましたので、夜桜を見に出かけましょうか、坊ちゃん」
「わかった」
本にしおりをはさみ、ローテーブルの上に置く。
その間にセバスチャンがコートを用意し、立っているシエルに着せた。
「玄関から出てしまうと、他の者に気づかれてしまいますから、テラスから外に出
ましょう」
セバスチャンに促され、シエルの寝室に移動し、窓を開けると、テラスへと出た。
外は思っていたよりも寒くなかった。
「坊ちゃん、失礼致します」
セバスチャンは、シエルを軽々と抱きかかえると、シエルは一瞬とまどいながらも、
セバスチャンのたくましい首に細い腕をまわし、胸元に顔をうずめる。
それを確認すると、セバスチャンは、テラスから庭へと軽々と飛び降りた。
「少し急ぎますので、しっかりつかまっていて下さい」
シエルはまわした腕に力を入れ、これ以上近づけないくらいにセバスチャンの身体
に自分の身体を押しつけた。
(・・・胸の鼓動が伝わってしまわないだろうか?)
そんな考えが一瞬浮かんで、身体を強張らせたが、いつものセバスチャンの匂いに
ふとシエルの頬が緩み、目を閉じ、身体をセバスチャンにゆだねた。
聞こえるのは、セバスチャンの胸の鼓動と、風の音、そして風が揺らす葉のかすか
な音だけ。
「つきましたよ」
セバスチャンの言葉にシエルは、青い瞳をゆっくりとあけると、目の前の光景に一
瞬で心を奪われてしまった。
満開の桜は、月の白い光を浴びて、可憐な薄紅色の桜の花びらが、今は、青白く輝
いて、闇の中で浮かび上がっているように見える。
昼に見る可憐な桜とは、まったく別の物のようだ。
青白く光を放つ桜は、何かを惑わせるような怪しい雰囲気に包まれている。
(太陽の日差しを浴びている桜より、夜の桜の方が僕にはお似合いだな)
裏の世界に身を置くことを自ら選び、そして悪魔の手をとり、復讐をすることを望
んだ自分には、輝かしい場所など似合わないのだから。
「綺麗だな・・・」
シエルはセバスチャンに地面におろしてもらうと、桜の方へ向かって歩きだした。
「えぇ、とても綺麗ですね」
セバスチャンの瞳は桜ではなく、月の光を浴び、桜以上に輝いている小さな『恋人』
を見ていた。
(何者にも穢されることのない坊ちゃんの魂のように美しいですよ)
桜の下まで歩を進めたシエルは、桜の木を見上げる。
満開の桜・・・ずっと見つめていると不思議と心を奪われてしまいそうな感覚に陥
る。
「桜の花は、人の心を魅了し、心を奪うと言います。坊っちゃん、心を奪われない
ように気をつけて下さい」
いつの間にかシエルの後ろには、セバスチャンが立っていた。
「・・・僕の心はもう奪われてしまったようだ」
桜を見つめながら、シエルは静かに告げた。
「桜にですか?それとも別のものにですか?」
「さぁ、どうだろうな?」
いたずらっぽくそう答え、シエルは振り返ると、セバスチャンの瞳は鮮やかな真紅
へと色を変えていた。
「それは、困りますね。坊ちゃんは、私の『恋人』なのですから」
「でもそれは、偽りだろう?セバスチャン、お前だってわかっていることだろう?」
「偽りですか・・・。確かにそういう『ゲーム』でしたね」
セバスチャンの声は気のせいか、いつもより低く、さみしげに聞こえる。
「なんだ、『ゲーム』の負けを認めるのか?」
シエルは自分の心の偽りを悟られないように、不敵な笑みを浮かべてセバスチャン
を見上げる。
「・・・坊ちゃんは、この半年、私と偽りの『恋人』としてですが、過ごしてみて
何か変わりましたか?」
鮮やかな真紅から茶色へと変わったセバスチャンの瞳には、憂いが浮かんでいるよ
うに見える。
(これも僕を試す為の演技なのか?悪魔というのは、どこまでもたちが悪い)
この半年、セバスチャンの『ゲーム』に振り回され続けたシエルは、ここぞとばか
りに大きなため息をつく。
「何も変わらない。そういうセバスチャンは何か変わったのか?」
「・・・坊ちゃんは、本当に何も気づいていないのですか?私がこの『ゲーム』を
貴方に持ちかけた本当の意味を?」
セバスチャンは意外そうにシエルに聞き返した。
いつものシエルであれば、自分の真意にすぐに気付くと思っていたのに。
「セバスチャンの気まぐれだろう?違うのか?」
シエルは、セバスチャンが何を言いたいのかわからず、だんだん苛立ちを感じ始め
ていた。
「確かにあの時、私の気まぐれだと言いました。それは、坊ちゃんと契約し、執事
として過ごしていく日々の中で、自分の気持ちの変化に気づいてしまったからです。
その感情を坊ちゃんにも気づいて欲しくて『ゲーム』を持ちかけたのです。」
「どういう意味だ?」
セバスチャンはシエルの眼帯のひもをほどき、右目の契約印を見えるようにすると、
自分の両手の手袋を外し、シエルの前に跪き、シエルを優しい瞳で見上げた。
「坊ちゃん。いえ、マイ・ロード。私の左手の契約印と坊っちゃんの右目の契約印。
それは、私と坊ちゃんの主従関係をあらわすもの。契約の対価は、坊ちゃんの魂。
その魂を最高の状態で手に入れる為、私は私の美学に従って行動をすればよかった。
しかし、それだけでは、物足りなくなってしまった」
「物足りない?」
シエルは、形のいい眉をひそめ、怪訝そうに聞き返した。
「・・・坊ちゃんの魂だけではなく、坊ちゃんの心と身体、坊ちゃんの全てを自分
の物にしたいという欲望が芽生え始めたのです。私の悪魔としての本能。最初はそ
う思っていました。しかし、それだけではないことに気づいたのです。だから、坊
ちゃんと『ゲーム』をすることで、坊ちゃんにも私の感じている感情、『愛しい』
という気持ちに気づいてほしかったのです」
「そんなの絶対に違う!!」
シエルはセバスチャンの言葉をさえぎるように大きな声で怒鳴ると、セバスチャン
を睨みつけた。
「・・・坊ちゃん」
セバスチャンは悲しそうな顔でシエルを見つめ返した。
「悪魔が人間のような感情をもつとは限らないと言ったのは、お前だぞ、セバスチ
ャン!!」
「確かに私はそう言いました。しかし、坊ちゃん、私が貴方を愛してるとあの時告
げていたら信じましたか?」
「・・・お前が愛しいのは、僕の魂であって、僕自身ではないだろう」
シエルは静かにそういうと、セバスチャンから視線を逸らした。
「確かに、坊ちゃんの魂は私にとって特別です。そして、シエル・ファントムハイ
ブという人間もまた私にとって特別な存在なのです。悪魔の私が坊ちゃんに逢わな
ければ、決して知ることのなかった『愛しい』という感情を教えたのですから」
「・・・・・・・・・・」
(セバスチャンは悪魔だ。人間と同じような感情を抱くと思えない。僕の魂への執
着には気づいていたが・・・)
悪魔のセバスチャンが、僕を愛しているなんて、信じることはできない。
僕は、誰も愛するつもりなんてないのだから。
セバスチャンよりも人間の僕の方が人としての感情を失っているのかもしれない。
いや、考えないようにしているだけなのかもしれない。
「『ゲーム』をすることで、坊ちゃんが少しでも私の事を考えてくれればいいと。
そして、私の気持ちに気づいてくれればと期待していたのですが・・・」
シエルは、この半年の事を思い返していた。
確かに『ゲーム』を持ちかけてきてから、セバスチャンの態度は少しずつ変わって
いた。
それは、『恋人』を演じているからなのだと思っていたからなのだが・・・。
(そういえば・・・)
シエルはある事に気づき、ハッとする。
何も答えようとしないシエルにセバスチャンは、顔を覗き込んだ。
「坊ちゃんは、私が『ゲーム』の話をしたときに、何か気づきませんでしたか?」
「・・・あぁ・・・」
なぜ、今まで、気がつかなかったのだろう。
最初からセバスチャンは『ゲーム』の事を持ち出した時に、勝敗について何も語っ
ていなかったことに。
「坊ちゃんなら、すぐ気付いてくれると思っていたのですが・・・」
セバスチャンは苦笑しながら言った。
「じゃあ、自分が最初から負けるとわかっていて、『ゲーム』をしたいと言ったの
か?」
「はい。私が想うように、坊ちゃんが私を想ってくれるかは、わかりませんでした
から・・・。そうなればいいとは思っていましたが」
シエルは困惑した表情で、セバスチャンの顔を見つめた。
いつもは憎たらしいくらい余裕の笑みを浮かべているセバスチャンが、見たことが
ないくらい情けなく見えるのは、気のせいだろうか。
「・・・セバスチャン。お前は、僕に嘘がつけない。そうだな?」
「はい。そういう契約ですから」
何度となく確認している契約の内容のひとつ。
シエルは跪づいているセバスチャンに近づき、両手でセバスチャンの両頬に手を添
え、自分の額とセバスチャンの額をくっつけた。
「ぼ、坊ちゃん?」
「僕は、自分の事ばかり考えていて、大切なことが見えなくなっていたようだ」
自分の本当の想いに気づかないふりをして、自分の心と向き合わないでいることに
ばかりきをとられて、『ゲーム』の本当の意味に気づけなかったということか。
シエルはセバスチャンの茶色の瞳を覗き込み、その中の真実を見つけ出した。
「坊ちゃん、どうかされたのですか?」
突然、大胆な態度をとるシエルにびっくりしたようだったが、セバスチャンはシエ
ルの手に自分の手を重ねた。
自分よりも体温の低いセバスチャンの体温がなんだかとても心地よく感じる。
「・・・人は自分を守るために嘘をつく。そして、僕も」
「そのようですね」
「僕の気持ちに気づいていたのか?」
「なんとなくですが。坊ちゃんが『ゲーム』とは言え、あんなに可愛らしい恋人を
演じられるとは思っていませんでしたから・・・坊ちゃんは自分の気持ちを言って
くれないとは思っていましたが、ここまでとは思いませんでした」
「・・・僕はどんな『ゲーム』でも負けないと言っただろう?」
やわらかい表情で微笑むシエルを愛おしむように、セバスチャンはシエルをやさし
く抱きしめた。
「『ゲーム』は坊っちゃんの勝ちです。坊っちゃんの願いを1つかなえましょう」
シエルはずっと言うことはないと思っていた願いを口にした。
「僕の願いは決まっている。契約としてではなく、命令でもない。セバスチャンの
心が欲しい。セバスチャンの全てが欲しい。これから先ずっと僕だけのものでいろ」
「はい、坊ちゃん。私の心はすでに貴方の物です。私の全ては貴方だけの物です」
その答えを聞くと、シエルは恥ずかしそうにセバスチャンから視線を逸らし、満開
の桜を見上げ、青い瞳を細めた。
そんなシエルの様子を見ていたセバスチャンが、シエルの手をとり、軽く口づけを
すると、温かい春の夜風が吹き、ひらひらと桜の花びらが舞い降りてきた。
「とても綺麗だ・・・」
ひらひらと舞い降りてくる白い花びらに手を伸ばしてみる。
つかめそうでつかむことができない白く小さな花びら。
手に入れることができないと思っていたセバスチャンの心みたいだ。
シエルの手のひらに1枚の桜の花びらが舞い落ちてきた。
セバスチャンは、跪づいた姿勢のまま、シエルを見上げ、
「坊ちゃん、私の願いも聞いて頂けますか?」
「『ゲーム』に勝った者だけが褒美をもらえるのではないのか?」
シエルが意地悪そうに言うと、
「僭越ながら、この場合は引き分けに近いかと・・・」
確かに、シエルもセバスチャンを好きになってしまったのだから、そうとも言える。
「セバスチャンの願いをかなえると言っても、人間の僕には魔力もないし、できる
ことは限られるが・・・」
「魔力など必要のない願いですよ。坊ちゃんが私と永遠の誓いをたててくれればい
いのですから」
「永遠の誓い?」
聞き返したシエルをセバスチャンの真紅の瞳が見つめていた。
「私は悪魔ですから、永遠の愛の誓いを神に誓うことはできません。坊ちゃんも神
ではなく、悪魔の私の手をとったのですから、神に誓うことはないでしょう。です
から、お互いが、お互いの為に永遠の愛の誓いたいのです」
「そ、それってまさか・・・」
シエルは白い頬を赤く染めながら、頭の中が一瞬真っ白になった。
「はい。人間でいうところのプロポーズということになるのでしょうか?坊ちゃん
と私が両想いだということがわかり、お互いがお互いを求めているのですから、自
然な流れだと思うのですが・・・」
シエルの左手をにぎったままセバスチャンはにっこりと悪魔に似つかわしくないほ
ど、優しい笑みを浮かべている。
お互いがお互いを求めている・・・か。
確かに、今の僕にはセバスチャンのいない人生は考えられない。
セバスチャンと共に同じ道を歩み、残りの生命を過ごすことも僕の願いということ
か。
ずいぶん、欲張りになってしまったものだ。
シエルはふと口元を緩め、セバスチャンの手を握り返した。
「・・・僕の最期をみとり、僕の魂を手に入れるのは、セバスチャン、お前だ。僕
はお前に誓おう、永遠の愛を・・・」
「私はシエルに誓いましょう。永遠の愛を・・・」
初めてセバスチャンに呼ばれた自分の名前に、シエルは恥ずかしそうにうつむいた。
セバスチャンは胸元に手を入れると、とりだしたリボンをシエルの左手の薬指に巻
きつけると、ちょうちょ結びをした。
「これは?」
「結婚指輪の変わりです。暗くてよく見えないと思いますが、このリボンは、桜と
同じ薄紅色なんですよ」
「薄紅色?」
セバスチャンは、もう一本のリボンを取り出し、月の光にかざした。
「これは、タナカさんに教えてもらって桜から染めたこの世界に2本しかない物で
す。それをシエルに受け取ってもらいたかったのです」
「桜の花びらで染めたのか?」
シエルは自分の左手のリボンをじっと見つめる。
月の明かりで青白いようにしか見えないが、言われてみると薄紅色にも見える。
「いいえ。桜の花びらからは色は染められません。木の皮を煮詰めると薄紅色に染
めることができるのです」
「桜の木の皮から染めたのか?桜の木を見ていると、茶色に染まりそうだが・・・」
シエルはセバスチャンの言葉がまだ信じられないようだ。
「桜の花びらの薄紅色は、桜の木自体が内部に持っている薄紅色の色素で染めてい
るそうです。自然というのは、不思議なものですね」
あのこげ茶色の幹が、桜の可憐な薄紅色の元になっているなんて、まるで、今のセ
バスチャンみたいじゃないか。
残酷な悪魔からは考えられないような優しい笑みと甘い言葉を囁き、僕を愛してい
るというセバスチャン。
指輪の変わり・・・なんて人間のようなことまでするなんて。
誰が想像できただろうか。
シエルはセバスチャンの手に握られていたリボンを受け取ると、セバスチャンの左
手の薬指に巻きつけた。
「・・・シエル?」
「これは指輪の変わりなんだろう?セバスチャンもつけなければ、意味がない」
決して器用とは言えないシエルが、リボンと格闘すること数十分。
どうにかちょうちょ結びをすることができた。
「これで私とシエルは人間でいうところの夫婦ということですね。私の気まぐれで、
長い時間を過ごすことになるかもしれませんがよろしいですか?」
「・・・セバスチャンの好きにしろ」
そっけない言葉で返事をするが、恥ずかしくてセバスチャンの顔を見ることができ
ない。
セバスチャンは立ち上がると、シエルを軽々と抱きかかえ、白い花びらが舞い散る
中、用意してあったテーブルと椅子の所まで連れて行った。
「約束通り、温かい飲み物とスイーツを用意してありますよ」
椅子に座らせてもらったシエルは、そばに立つセバスチャンを見上げる。
「・・・僕はこっちのスイーツの方がいい」
セバスチャンの黒いタイを引っ張ると、セバスチャンの薄い唇に自分の唇を重ねた。
・・・最初から全部僕のものだったんだ。
お互いの唇の感触を楽しむように軽いキスを繰り返していたが、セバスチャンに強
く抱きしめられ、次第に深いキスへと変わっていく。
「・・・ん・・・んふっ・・・セバス・・・チャン」
甘い吐息の合間に愛おしい悪魔の名前を呼ぶ。
「・・・もっと僕に夢中になれ」
「シエルももっと私に夢中になってください。私がどれだけ、シエルを愛している
かこれから教えて差し上げますよ。・・・快楽も喜びも全てを・・・愉しみですね」
シエルの身体からは媚薬のように甘い香りが薫る。
鮮やかな真紅の瞳が怪しく光ったように見えたのは気のせい?
二人の薬指のリボンが優しい春風に吹かれ、揺れていた。

            ◆   ◆   ◆

この世にかなう願いとかなわない願いがある。
一度失ってしまった物が二度と戻らないように。
でも、願えば、かなう想いがあることを知った。
この先、どうなるかなんて誰にもわからないけれど。
愛しい悪魔といれば、かなわない想いもかなうような気がする。
この先も、ずっと二人でいれば・・・。


            〜Happy Wedding〜


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はじめまして、月の雫と申します。
セバシエ大好きという気持ちだけで、物語まで書いてしまいました( ̄▽ ̄;)
稚拙な文章ですが、少しでも楽しんで頂けると幸いです。
題名は、お気づきの方もいると思いますが、私の好きなアーティストの方のタイト
ルをお借りしました。
目は口ほどに・・・とよくいいますので、目を見て大事なことを確認しあった二人
という感じでしょうか。
「24/7」という話しも書いていますので、よかったら読んでみてください。
シエルとセバスチャンの結婚、おめでとうございます!!